2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。第39回放送で紹介された実朝作の四首はともに子規の「九たび歌よみに与ふる書」で紹介されている。
一々に論ぜんもうるさければ只々二三首を挙げ置きて金槐集以外に遷り候べく候。
山は裂け 海はあせなん 世なりとも 君にふた心 われあらめやも
箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や おきの小嶋に 波のよる見ゆ
世の中は つねにもがもな なぎさ漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも
大海の いそもとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも
箱根路の歌極めて面白けれども斯る想は古今に通じたる想なれば実朝がこれを作りたりとて驚くにも足らず、只々「世の中は」の歌の如く意古調なる者が万葉以後に於いてしかも華麗を競ひたる新古今時代に於いて作られたる技倆には驚かざるを得ざる訳にて実朝の造詣の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん。
(九たび歌よみに与ふる書 明治三十一年三月三日)
そもそも子規の「歌よみに与ふる書」は実朝への評価から始まっている。
仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候(もうさずそうろう)。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざ是からといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存(ぞんじ)候。強(あなが)ち人丸、赤人の余唾を舐(ねぶ)るでもなく固(もと)より貫之、定家の糟粕(そうはく)をしやぶるでもなく自己の本領屹然(きつぜん)として山嶽と高きを争ひ日月と光を競ふ処実に畏るべく尊むべく覚えず膝ひざを屈するの思ひ有之(これあり)候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく北条氏を憚りて韜晦(とうかい)せし人かさらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は人間としては下等の地にをるが通例なれども実朝は全く例外の人に相違無之(これなく)候。何故と申すに実朝の歌は只器用といふのではなく力量あり見識あり威勢あり時流に染まず世間に媚こびざる処、例の物数奇(ものずき)連中や死に歌よみの公卿達と迚(とて)も同日には論じがたく人間として立派な見識のある人間ならでは実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之これあるべく候。
(歌よみに与ふる書 明治三十一年二月十二日)