1936(昭和11)年2月26日、陸軍皇道派の青年将校らが約1400人の兵士を率いて起こしたクーデター。政府の閣僚や要人を襲撃した後、永田町一帯を制圧して軍部独裁政権の樹立と昭和維新の断行を要求した。
政府側も川島義之陸相(日露戦争時:後備歩兵第十一旅団副官。愛媛出身。秋山好古伝記刊行会委員長として好古の伝記に序文を記している)がこれに応じる形で陸軍大臣告示を発するなど、当初は彼らの行動に理解を示した。しかし、昭和天皇が「自ら近衛兵を率いて鎮圧する」というような断固たる姿勢を示したため、最終的に反乱軍鎮圧に動き出す。政府は27日に戒厳令を布告、29日には反乱軍を鎮圧した。
この事件によって、岡田内閣が総辞職し広田弘毅内閣が成立。その過程で軍部大臣現役武官制を復活し、軍部の影響力が一気に強大化していった。
皇道派の一部青年将校らは、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに掲げ、奸臣を殺害し天皇親政が実現すれば、政治腐敗が無くなると考えていた。
・岡田啓介
首相という立場から、襲撃対象となった。警察官の応戦の隙に岡介は押入れに隠れる。反乱将校らは義弟の松尾大佐を首相と誤認して殺害し、そのまま引き上げていった。岡田は翌日、生存の事情を知った首相秘書官らの協力を得て、弔問客に変装して官邸から脱出している。
日露戦争中は春日の副長として日本海海戦に参戦している。
・高橋是清
高橋是清大蔵大臣は財政政策の一環として陸軍予算を削ろうとしていたことから恨みを買っていた。就寝中に私邸を襲撃された高橋は、寝室で将校らに殺害される。彼の私邸は丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地に建っていた。
現在は敷地の一部が「高橋是清翁記念公園」になっている。空襲で主な建物はほとんど焼失したが、一部は「江戸東京たてもの博物館」に移設されていて、2・26事件現場の寝室も見学することができる。
・斎藤実
天皇の側近である内大臣の地位にあったことから、襲撃を受けた。就寝中に襲われた斉藤は銃撃を受けて死亡。一緒にいた夫人は「撃つなら私を撃ちなさい」と将校たちの前に立ちはだかり、腕に重傷を負いながらも夫をかばおうとしたという。この事件発生当時に着用していた斎藤夫妻の衣服、銃弾を受けた鏡や枕などが斎藤実記念館に展示されている。
・鈴木貫太郎
天皇側近である侍従長の地位にいたことから襲撃を受けた。貫太郎は至近距離から銃撃されたが、妻が止めを刺そうとした将校を制止したおかげで一命を取り留めた(→「鈴木貫太郎」に掲載しているエピソード参照)。
・渡辺錠太郎
反乱将校らが心酔する真崎甚三郎の後任として教育総監になったことから襲撃された。私邸が襲撃された際、渡辺は幼い娘を机でかばい、自ら拳銃で応戦したが警備兵と共に殺害される。
渡辺は歩兵第三十六中隊長として日露戦争に出征。沙河開戦後は山県有朋の副官を務めた。事件の一年前、荒木貞夫と共に日露戦争三十周年記念座談会に出席している。