出身地 |
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生没年 |
1864年〜1919年 |
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陸軍士官学校 |
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陸軍大学校 |
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日清戦争時 |
近衛師団参謀 |
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日露戦争時 |
ロシア公使館付武官 |
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最終階級 |
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伝記、資料 |
「明石元二郎」(小森徳治) |
大阪の陣で活躍した戦国武将 明石全登の末裔と言われている。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業後、ドイツへ留学。日清戦争では近衛師団参謀として出征した。その後、参謀本部部員、フランス公使館付武官を経て明治35年にロシア公使館付武官となる。そして日露戦争開戦と同時にストックホルムへ拠点を移し、諜報活動や攪乱工作を担当。その活躍ぶりは後に「10個師団に相当する」と評された。
韓国併合後の明治43年、韓国駐剳憲兵隊司令官に就任すると独立運動を取り締まる立場となり、武断政治を断行した。一方、大正7年に台湾総督に就任後は、電力事業の推進や、日本人と台湾人との教育格差を無くす法改正を行うなど台湾統治に尽力した。在職中に亡くなり、その遺骨は遺言により現在も台湾に埋葬されている。
幼い頃から人並み外れた腕白であり、周囲の者もその対応には困惑したようである。七歳の頃には懲罰として叺(藁莚[わらむしろ]を二つ折りにし、両端を細い縄で縫った袋)に入れられ、さらにそのまま土蔵に放り込まれたが、泣きも叫びもせずに平然としていたという。
士官学校同期生の星野金吾は「明石は十三四歳のころから一風変わった男であった。ズボンの帯をぐったりして、腰から落ちようとするのをいつも手で押さえていたから、裾が擦り切れてぶさぶさになっていた」と回顧し、また上級生の本郷房太郎も「少尉時代の明石は剣をガチャガチャ鳴らし、ズボンの金鈕が外れようが何だろうが一向平気な構わぬ男だった」と語るなど、明石のズボラさは陸軍内でも有名だったようである。
陸大卒業後、参謀本部に勤務していた明石はある時に野外要務令の編纂過程で「ポケットに弾丸を入れる」という項目に猛反発したことがあった。すると田村怡与造が「それは明石のズボンならばのことで、他の人ではそうではないよ」、つまり、穴が開いていて弾丸を入れることの出来ない明石のポケットとは違うと揶揄したため、この時ばかりは明石も反論できなくなってしまった。
いつでも擦り切れた服を着ており、洟を垂らし、服装検査ではいつも叱られていた明石。士官学校同期生の安藤厳水は明石の死後、
「彼が陸軍大学時代であった。当時士官学校の教官であった余を訪ねてきた。それで校内を二人連れで歩いていると、当時校長であった寺内(正毅)さんがやってきた。すると明石は頻りに自分の左側を寺内さんの目に触れぬよう気遣うのだ。どうしたものかと調べてみると、剣の鞘は一向磨きもせず、赤錆になっていたからで、それが寺内さんの目に触れぬようにとの苦心であった。」
というエピソードを語っている。後年、その寺内から重用された明石であったが、友人たちは「なぜ性格が正反対の寺内さんに気に入られたのだろう」と不思議がっていた。
士官学校時代、陸軍大学校時代の明石は大のイタズラ好きで、同期の立花小一郎が後年「若年の明石が年長生を凌駕し、悪戯大将となって暴れまわっていた」「あまりの悪戯者で、メッケルからは却って睨まれていた」と言うほどであった。どんな事をしていたのかというと、
・教官不在中を見計らって教官室前にある椎の木に登って実を掠め取っていたところ、教官が戻ってきてしまい、数時間木の上から下りれなくなってしまった。
・週番士官が巡視に来るときは、あらかじめドアノブに靴墨を塗っておいたり、ドアの上に砂入りの箱を仕掛けて戸が開くと砂を被るように仕組んでいた。
・当時の士官学校にいたフランス人教官はエスカルゴが大好物であり、学生たちが捕まえたカタツムリをプレゼントすると喜んでポケットにしまっていた。そこで、明石はカタツムリの代わりにカエルを紙に包んで教卓の上に置いておいた。何も知らない教官は喜んで「ありがとう」と言ってポケットにしまいこんだが、授業中に紙包みから抜け出したカエルがポケットから飛び出し、驚くと共に怒り出したという。
この他にも様々なイタズラを率先してやっていたようで、同級生達の回顧談は「ズボラな明石の性格」と「イタズラの思い出」が大半を占めている。
ドイツで国際的な式典が開かれた際、明石が陸軍随員として出席することになった。ホテルに到着した時、荷物を開けていた海軍随員の八代六郎が「困ったなぁ明石、名刺がない。こんなところで揃えるには2,3日かかるだろう」と言うので、明石は「どれ、俺が書いてやるよ」と言い出した。「そうか、では頼む。俺は尺八を聴かせてやろう」そう言って八代が尺八を吹く間に、明石は手書きとは思えない見事な名刺を数十枚書き上げたという。
日韓併合後、朝鮮の憲兵司令官に就任した明石は、総督の寺内正毅と共に反日運動弾圧を行った。明石と親しかった葦津耕次郎は「併合政策は日本の大失態だ。自国の政治が整わないうちに他国に手を出すことは、他国を救えないばかりか、自国を滅ぼす」と、この圧政に反対し、二人の激論が深夜まで続いたこともあった。
数年後、台湾総督に就任した明石は圧政を心配する葦津に対して、「今度は君の意見を尊重して、期待に背かないようにするよ」と語った。明石は赴任するとすぐに各地の巡視を行い、民情の把握に努めた。彼の在任は1年4カ月と極めて短い期間だったが、その間に水力発電事業の推進、新教育令の公布施行(内地人との教育上の区別を少なくする)、司法制度改革、交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めて、台湾統治に尽力した。
朝鮮に赴任していた頃、来客があると客を自分のベッドに寝かせて、明石自身は長椅子で寝ていたという逸話があった。明石の台湾総督就任を祝って祝宴会が開かれたとき、友人の山田記慣が明石に誘われて彼の宿で夜遅くまで話していると「もう遅いから、ここに泊まっていかないか?」と明石が言い出したので、「そうだな。そうしよう」と山田が答えた。すると明石は自分のベッドを指して「じゃあ、これに寝ろ」。結局、山田はホテルの鉄製組立ベッドを借りてそこに寝ることになったのだが、この一件で彼は朝鮮での逸話も納得できたという。
士官学校同期の安藤が明石の官舎を訪れ2人で酒を酌み交わしていた時、安藤が「小便に行きたいのだが厠はどこだ」と尋ねると明石は「その辺でしておけ」と庭を指差した。安藤は「憲兵司令官にまでなっても不衛生なやつだった」と回顧している。部屋の中は汚く、庭も手入れされずに草木が伸び放題といった状態で、明石のズボラぶりは終生なおらなかった。
韓国駐在中、明石は所得の残余全てを故郷の母親に送金していた。また、日韓併合で賞与3000円が出た際には「自分一人で働いた報酬ではない」と言って、全額部下に分け与えたという。
台湾総督時代、日月潭水力電気会社が設立されると、友人が会社の株を取得するように頻りに勧めてきた。すると明石は、「自分で作っておいた会社の株を私有化することはできぬ」と拒絶し、最後まで一株も取ることがなかった。
このように金銭に無頓着な明石は財布を持ち歩くことなく、現金はポケットに入れておいてそこから無造作に掴みだすことが多かった。ロシア公使館付武官だった頃に、公使館を訪れた友人がゴミ箱の中に十ルーブル紙幣が紛れ込んでいるのを見つけたという話さえ残されている(ただ、明石はこの噂だけは否定していた)。
「台湾総督の次は総理大臣」と期待されていた明石であったが、在職中の大正8年に56歳で亡くなった。将来首相となるべき人物を物色していた山県有朋の手帳には上から「1、児玉源太郎 2、桂太郎 3、寺内正毅 4、明石元二郎 5、田中儀一」の順に名前が書かれており、特に明石の名前にだけは赤丸が付けられていた。
日露戦争中の諜報活動についてのエピソードは、別ページ「明石の諜報戦」に掲載。