死闘

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第一、第二戦隊の戦況 (真之の戦闘詳報より)

 我が主隊は斯の如く敵を南方に撃圧し、煙霧の中敵影を発見する毎に緩徐にこれを砲撃しつつ、午後三時頃には既に敵の前路に出で約南東南に向針しありしが、敵は俄に北方に向首し、我後尾を回りて北走せんとするが如きを以て、第一戦隊は急に左十六点に一斉回頭し、日進を嚮導として北西に向い、第二戦隊もその通跡を過ぎたる後、正面を変じてこれに続き、再び敵を南方に撃圧し、これを猛射し、午後三時七分敵艦「ジエムチウグ」は、第二戦隊の後方に突進し来りしも、遂に我砲火に因り殆ど撃破せられ、已に戦闘力を失いたる「オスラービヤ」も同時十分に沈没し、孤立せし「スウオーロフ」は益々大破してその一檣ニ煙突を失い、全艦煙焔に包まれ操縦する能はず、混乱せる爾余の諸敵艦も多大の損害を受けつつ、またその針路を東方に採れり。


< 午後三時分の両艦隊の位置 (「明治三十七八年海戦史」挿図) >


< 午後三時十五分の両艦隊の位置 (「明治三十七八年海戦史」挿図) >


<下瀬火薬で炎上したアリヨールの艦上>


<被弾したアリヨールの副砲砲塔付近>

ここに於て第一戦隊もまた一斉に右十六点に回頭し、第二戦隊これに次ぎ、遁ぐるを追て益々敗敵を掩撃し、時々機を見て水雷発射をも試み、午後四時四十五分頃に至るまで、主隊の戦闘に就ては別に著しき現象無く、始終敵を南方に圧して砲撃を継続したるに過ぎず、ただこの間壮烈事蹟として特筆すべきは、午後三時四十分の頃、千早及び第五駆逐隊が、並びに午後四時四十五分の頃第四駆逐隊が、敵の廃艦「スウオーロフ」に対し勇敢なる水雷攻撃を決行したることにて、前者の奏功は確実ならざりしも、後者より発せし一水雷は敵艦の左舷後部に命中し、須臾にして艦体十度計り傾斜するを見たり。この両回の襲撃中、第五駆逐隊の不知火、及び第四駆逐隊の朝潮は、附近敵艦より猛射せられ、共に一弾を受けて一時危殆に陥りしも、幸にして遂に無事なることを得たり。


< 午後三時三十分の両艦隊の位置 (「明治三十七八年海戦史」挿図) >


< 午後四時の両艦隊の位置 (「明治三十七八年海戦史」挿図) >


< 午後四時三十五分の両艦隊の位置 (「明治三十七八年海戦史」挿図) >

 午後四時四十分の此に至り、敵は北方に血路を開くを断念せしにや、漸次南方に向って遁入するものの如く、仍(よ)て我が主隊は第二戦隊を先頭としてこれを追撃せしが、少時にして遂に敵影を煙霧の裏に失し、南下すること約八海里、行々我が右方に離散彷徨せる敵の二等巡洋艦以下、特務艦船等を緩射し、午後五時三十分、第一戦隊は再び針路を北方に執りて敵の主力を索め、第二戦隊は南西方に折れて敵の巡洋艦に迫り、爾後日没に至るまでこの両戦隊は分離して各別の行動を執り、また相見る能はざりき。
 第一戦隊は午後五時四十分頃、その左方近距離に在りし敵の特務艦「ウラール」に一撃を加えて直にこれを撃沈し、なお北方に索敵進航せる時、左舷艦首に当り敵主力の残艦約六隻の一群が北東に向い遁走しつつあるを発見し、直に近づきてこれと並航戦を再始し、漸次敵の前方に出でてその先頭を撃圧せしかば、敵は初め北東の針路を執りしも次第に西方に屈折し、遂には北西に向針するに至れり。この並航戦は午後六時より日没まで連続し、敵は大破の余その砲力減少せるに反し、我が沈着なる射撃は益々その威力を逞しうし、「アレクサンドル三世」と見えたる敵艦は早く列外に出でて後方に落伍し、先頭に占位せし「ボロジノ」型戦艦は午後六時四十分頃より大火災を起し、七時二十三分に至り俄然爆煙に包まれて瞬時に沈没せり。蓋し火災の弾薬庫に及びしならんか、また当時南方に在りて敵の巡洋艦隊を北方に追撃しつつありし第二戦隊の諸艦は、已に傾斜して進退自在ならざる「ボロジノ」型戦艦一隻が、午後七時七分敵艦「ナヒーモフ」の側に来り遂に転覆沈没せるを目撃せり。後日捕虜の言に依り、これ即ち「アレキサンドル三世」にして、第一戦隊の見たるものは「ボロジノ」なりしを知るを得たり。この時夕陽已に春き、我が駆逐隊、艇隊は、東南北の三面より漸次に敵に迫り、已に襲撃準備の姿勢を執れるを以て、第一戦隊は次第に敵に対する圧迫を弛めて、日没(午後七時二十八分)と共に東方に変針し、同時に本職は龍田をして、全軍北航して明朝鬱陵島に集合すべしと電令せしめ、ここに当日の昼戦を結了せり。