日清・日露戦争実記、写真画報
(記事編)

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八代六郎の「千鳥」の曲

 艦長八代大佐は、剛邁勇武の一徹ならず、その半面は優にやさしき風雅士(みやびお)にして、日頃尺八の技を嗜み、世にも稀なる名手たり。仁川の戦い将に開かれんとする数分前、この世の名残に秘曲一節吹奏でんものと、この時までも携えたる、愛蔵の一管を取出し、吹出ずる『千鳥』の曲、玲瓏吹徹すれば、海波も為に静かなる如く「君が代をば八千代とぞ啼く」というに至れる時、忽ち「敵艦見ゆ」との報告に接し、徐(しずか)に竹を置いて立ち、号令一発、、砲火は轟然として天空を驚かし、それより奮戦して敵艦を全滅し、征露史上開巻第一に驍名を留めたる千古の風流、槊(ほこ)を横たえて詩を賦しけむ曹孟徳をして、美を前に擅(ほしい)ままにせず、征奥途上足柄山の月に、笙(しょう)の秘曲を伝えたる新羅三郎と共に、武勇兼備の日本心(やまとごころ)を発揮したる、武士(もののふ)の香しき名こそ久しけれ。

(日露戦争写真画報 第一巻より) 



  曹孟徳 : 三国志の曹操。詩作をするなど、文学的な素養も持っていた。
  新羅三郎 : 源義光。源義家の弟。後三年の役で苦戦する兄を助けるため、官位を捨てて奥州へ向った。


第二軍公式ソング

 軍医監 森林太郎氏は、第二軍軍医部長として従軍されて居ります。氏は医学の事は勿論精通されて居ります。我が軍が夏季に際しても、流行病の蔓延もなく、また平病でも日清戦争の時に比ぶれば非常に少ない、これは各兵士の衛生を重んずる事が、第一の原因ではありますが、軍医部長が部内の軍医を指揮して、軍の衛生事業を図れるに由れる事とは思われます。常に文学を嗜まれ、医学博士の学位は予てより御持ちですが、兼文学博士の学位を授けられても宜しい人だと評判して居ります。第二軍の軍歌は氏が陣中で作られたものであります。軍隊行軍の時などは、この勇まし軍歌を歌い疲れた足を慰むるのであります。

 ○第二軍の歌

   海の氷(ひ)こごる、 北国も、 春風今ぞ、 吹きわたる、
   三百年来、 跋扈(ばっこ)せし、 ろしやを討たん、 時は来ぬ

   十六世紀の、 末つかた、 うらるを踰(こ)えし、 むかしより、
   虚名におごる、 あだびとの、 真相たらかは、 知らざらん、
   ぬしなき曠野(あらの)、 しべりやを、 我物顔に、 奪いしは、
   浮浪無頼の、 えるまくが、おもい設けぬ、 いさをのみ

   黒龍江畔、 一帯の、 地を略せしも、 清国が、
   長髪族の、 反乱に、 つかれしからの、 僥倖ぞ、
   勇あり智なき、 すゑえでん、 武運つたなき、 ぽおらんど、
   歯の立つものの、 なきままに、 我慢は世々に、 つのり来ぬ

   海幸おおき、 樺太を あざむきえしか、 交換歟(か)、
   わが血を流して、 遼東を、 併呑せしか、 なに租借、
   鉄道北京に、 いたらん日、 支那の瓦解は、 まのあたり
   韓半島まず、 滅びなば、 わが国いかで、 安からん

   本国のため、 君がため、 子孫のための、 戦(たたかい)ぞ、
   いざ押し立てよ、 連帯旗、 いざ吹きすさめ、 喇叭の音

   見よ開闢(かいびゃく)の、 むかしより、 勝(かた)ではやまぬ、 日本兵、
   それ精鋭を、 すぐりたる、 奥大将の、 第二軍

(日露戦争写真画報 第二十巻より) 



第二軍集合写真

  第二軍幹部。前列右から二人目が秋山好古。そこから左へ小川又次(第四師団長)、大島義昌(第三師団長)、
  奥保鞏、梨本宮、大久保春野(第六師団長)、落合豊三郎、飯田俊助(歩兵第十一連隊長、後に第一師団長)、
  一番左端の人物が当時第二軍の軍医部長を務めていた森鴎外(林太郎)。   (日露戦争写真画報 第九巻より)



波艦隊来る!!!

△波艦隊来る!頗る面白し。好入来!好入来!然るに世間では、何か恐ろしい者でも来た様に思い、何(ど)うか神風が吹いてくれればよいなど、消極的寝言を言う先生もある。我輩甚だその意を得ん、神風も何もいるものか、我に東郷艦隊あり。
△今日の日本は、蒙古襲来時代とは大いに異なって居る。我輩は寧ろ波艦隊の来らざらんことを恐る。好入来!好入来!願わくは当分波風穏やかで、我が東郷艦隊をして、充分武威を振わしめよ。
△あまり風が吹いたり波が高かったりすれば、敵艦を撃つに甚だ不便である。敵艦はかかる機会を利用して、結局浦鹽斯徳(ウラジオストック)へ逃げ込まんと構えて居るのだ。何うか風吹くな、波高まるな。
△一体神風吹けばよいなどと云うのは、冗談にしても甚だ意気地のない言(ことば)である。その様な弱音を吐く者が多くなれば、一国の士気は衰える。日本人たるもの、なんでも自力を以て敵を踏み破るべし。この意気ある故に日本人は強いのである。

(日露戦争写真画報 第二十二巻より) 

 波艦隊 : バルチック艦隊。当時は「波羅的艦隊」と書かれていた。


 ※この記事は日本海海戦で「浪高し」の電文が発せられる2週間以上前の5月8日に発行されている。



非常の美人

 去る六月六日、土門子村に向かいし我が斥候隊は、一人の年若き露兵を生捕りて、斥候隊長佐治大尉の前に拉し来れり。時に大尉は如何にもまじめなる風して一場の質問を試みたり。曰く、
(問)汝は何歳ぢゃ    (答)二十四歳
(問)女房はいるか    (答)御座います
(問)何歳になる      (答)二十歳です
(問)別嬪か
・・・この最後の問いにかの露兵は得意の色を満面に湛え、
(答)ハイ、非常の美人です
と、言いも終わらぬに流石の大尉も溜まり兼ねハハハと噴きいだしたるに、傍らにありし兵士一同も、思わず腹の皮を捩りたりとなん。

(日露戦争写真画報 第五巻より) 




激戦中の滑稽

 激戦終りたる後の宿営に於ける兵士の座談こそ面白けれ。曰く「戦争の最中は、容易に便通を催さない。また便通を催したところで、決して快く通じるものではないと聞いていたから、物は試しと思って一日(九連城)の日は戦線で幾度も小便をしてみたが、更に平常と変わることはなかったよ」と。また曰く「イヤ俺はまた戦争中は必ず睾丸が縮み上がって腹へ入るものだと聞いていたから、鴨緑江の戦いでは、一とこれを試して見やろうと思ったが、余り戦いが激しかったんでその方にばかり気を奪われてトウトウ始舞まで忘れて仕舞った。しかしこの次はぜひ試して見よう」と。以て我が兵士の胆大なるを知るべし。

(日露戦争写真画報 第四巻より) 




弾丸は如何にして之を破裂せしむるか?

日露戦争実記記事

(日露戦争写真画報 第四巻より) 

 ※写真画報の記事では、このような一般人向けの兵器解説、軍事分野の専門的な解説なども時々掲載されている。



大山元帥と児玉大将

▲大山元帥の世に立つや、巨船の悠々として波浪を破るが如く、児玉大将の行くや、軽快なるヨットの波間に馳走するが如し。。
▲大山元帥はボンヤリしたる所に値打あり。児玉参謀長は、鋭い所が生命なり。元帥は海洋の如く、参謀長は河流の如し。総司令官は誰人をも容るると共に、人を感化するの力がある。
▲元帥のブクブクしたる顔面には、言うべからざるチャームありて人を引き付け、児玉参謀長の顔は五百羅漢の中に有りそうなり。
▲元帥の幼名は弥助、参謀長のそれは百合若。名から見ても、後者は苦労する方なり。

(日露戦争写真画報 第七巻より) 




征露九大将の風流

●大山大将 甚だ遊猟を好む。但し腕前はおらが村の杢助に劣るとて、嘗て芋洗う村婆に罵倒されしことあり。遊猟に次いで画を好み、また百姓を能くす。
●黒木大将 第一の嗜好は酒にあり。勿論酔うて管巻く様な事は無し。鳴り物は余り好まず、酔わざる時は即ち禅僧の如く、兀(ごつ)として静かに沈潜す。
●奥大将 大山大将同然遊猟を好めど、矢張り下手の数には漏れず、時々猟犬に叱られる事ありとかや。昔話に妙を得て諄々と説く処、隠居に似たり。
●野津大将 何よりも古書がお好きなり。閑さえあれば書斎に楯籠り、机を砲塁として筆を剣に代え、孜々として臨模する御容子甚だ殊勝。蔵書値すでに三千金余。
●児玉大将 頗る風流韻事に富む。歌も詠み詩も作り画も描き玉う。将軍字は藤園也。雅号の平凡なる如く、軍事以外の余技は余り旨しとは見え玉わず。
●乃木大将 気骨稜々これは一種の風流なり。備前長光の銘刀は日に一回必ず鞘を脱して鳴る。将軍また詩を能くす。号を石林と云う。その詩、奇気横溢の概あり。
●長谷川大将 風采堂々武辺一遍の人。強いて嗜好はと問えば、己は酒よりも女よりも馬が第一ぢゃと微笑す。名馬二頭あり手自ら秣(ばぐさ)を与うるを楽しみとす。
●西大将 将軍の風采は外交官的なり。されど語気烈々火の如し。嗜好は中々多角的にて詩才文才兼備え、都都逸長唄にも妙を得たり。軍中第一の風流漢。
●東郷大将 大賢は不知に似たり。格別耽り玉う嗜好は無きようなれど、書画刀剣の事知らざる無く、特に山水画を愛で玉うとかや。気品超絶の名将なり。

(日露戦争写真画報 第十二巻より) 




陣中の湯屋

 口を開けば即ち不自由を連呼する旅順の地に於いて、入浴の儘ならぬ事などは、その最も不自由の唯一なるべし。二○三高地の戦傷者、少尉蒲寧氏が書信中の一節に、素人風呂の開場の規則あり。頗る滑稽を極む。風呂は分捕りの大釜を用いたるものにして、下駄履きにて入浴す。宛然たる膝栗毛の一節にあらずや。所謂入浴規則所謂入浴規則なるもの左の如し。
一、浴槽中にて垢を落とす事は堅く御断り申上候
一、浴場内に虱を遺棄せざるよう御注意有之度候
一、入浴時間は一組(二人)十五分より長きは御断り申上候
一、湯の使用量は各人露助の飯盒に二杯の事

(日露戦争写真画報 第十七巻より) 



一水兵の頓知

 英艦隊歓迎式の時の事だ。我が「磐手」の一水兵と英旗艦「ダイアデム」の一水兵とは、日比谷公園のビアーホールで相会し、何時の間にか頗る懇意になり、頻りに手真似か何かで挨拶して居ったが、どうも手真似ではもどかしくて堪らぬ。英国水兵は無暗に首を振って煩悶の情を示して居ると、磐手の水兵はなかなか頓知(とんち)がある。いきなり立って彼方へ行ったので、何をするか見て居ると、やがて赤と白の旗を二本ずつ携えて来り、その一組を英国水兵に渡し、万国信号で談話を始めた。英国水兵は喜ぶまい事か、喋るは喋るは、万国信号で!

(日露戦争写真画報 第三十六巻より) 

 ※同盟国であった英国の艦隊は明治38年10月に日本を訪問し観艦式に参加ている。その時の記事。


桜井忠温の記事

日露戦争実記記事

(日露戦争写真画報 第四十巻より) 

 ※「肉弾」の著者 桜井忠温が一従軍者として、余り知られていない兵卒らの活躍を紹介している。


日本海海戦の戦闘詳報

日露戦争実記記事

(日露戦争実記 第七十七巻より) 

 ※「天佑と神助に因り〜」で始まる真之の戦闘詳報が日露戦争実記の巻頭記事として大々的に掲載されている。



日清軍艦比較表

日清軍艦比較表

日清軍艦比較表

日清軍艦比較表

(日清戦争実記 第十九編より) 

 ※黄海海戦に参戦した日清両艦隊の比較。今はCGなどで描かれる軍艦の絵も当時は手書き。




日清戦争の論功行賞

日清戦争 論功行賞

(日清戦争実記 第四十編より) 

 ※秋山真之の受賞については掲載されていない。




敵前回頭のない海戦図

日本海海戦図

(日露戦争実記 第七十三編付図) 

 

 日本海海戦直後の6月3日に発行された「日露戦争実記 第七十三編」の付図の一部。海戦から一週間足らずで正確な情報が集まっていなかったせいか、連合艦隊の航路が実際のものと異なっている。






<続く>