書名 |
北豫中学松山高商 楽屋ばなし |
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著者 |
井上要 |
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出版 |
非売品 |
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初版 |
昭和8年 |
北豫中学、松山商高の歴代校長やエピソードをまとめた書籍。著者の井上要は、秋山好古に校長就任を依頼した人物の一人。ここで紹介されているエピソードの大半が数年後に執筆された伝記「秋山好古」で引用、採用されているため、"好古校長"の資料としてはどちらかというと伝記の方が充実している。昭和8年発行の非売品。
【両書各章の対比表】 |
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「北豫中学松山高商 楽屋ばなし」 |
伝記「秋山好古」 |
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「俄かに光る北予中学」 |
⇔ |
「一 校長就任」 |
「無言の教、無為の化」 |
⇔ |
「三 校長の六年間」 |
「超教育家の識見」 |
⇔ |
「二 教育識見」 |
「徹底せる私学観」 |
⇔ |
「二 教育識見」 |
「秋山校長の辞職するまで」 |
⇔ |
「四 校長辞職」 |
「松山に於ける私人秋山翁」 |
⇔ |
「三 校長の六年間」 |
城哲三郎
北豫中学の前身である北豫英学校の創立者。松山市選出の県会議員に働きかけて学校を中学に昇格させるが、急な拡張を推し進めたため財政難に陥り、さらに教員解職に伴う生徒の暴徒化で学校閉鎖に追い込まれる。その後、京都で私学経営始めたが間もなく死去した。
白川福儀
公共社を組織して自由民権運動の唱首となり、後に自由党に参加。県会議員、海南新聞主筆、同社長、松山市長などを歴任。市長の任期満了後、北豫中学会の専務理事として同校の財政建て直しに携わる。明治37年に校長に就任。在職中の大正5年に死去。
加藤彰廉
東京帝国大学文学部卒業後、文部省、大蔵省勤務を経て教育界に転身。山口高等中学校や広島尋常中学校、市立大阪商業学校の校長を歴任。大正4年には大阪市民に推され衆議院議員となるが、翌年には加藤恒忠らの要望を受け北豫中学校長に就任した。大正12年の松山高等商業学校創立と同時にその校長となり、北豫中学校長を辞している。
井上要
「北豫中学松山高商 楽屋ばなし」の著者で実業家。弁護士、衆議院議員、伊予鉄道社長などを務める。明治34年から北豫中学会の理事を務め、白川福儀らと共に中学運営で中心的な役割を担った。昭和10年には伊予鉄道の退職金で図書館を建造して県に寄贈している。
新田長次郎
維新後間もなく大阪に出て、当時賤業として低く見られていた製革職人として修業を始めた。後に独立して実業家として成功した新田は、資材を投じて大阪や松山の学校設立を援助した。好古とは明治35年頃に同郷人の会合で知り合い、その後も好古が新田の経営する北海道の牧場に何度も赴くなど、晩年までその親交が続いた。
加藤恒忠
秋山好古や加藤彰廉ら校長候補者の説得、新田長次郎ら資金援助者の説得など、主に裏方として北豫中学、松山高商両校の設立に貢献した。