真之は各種戦術や戦略を、兵力や兵器などの「有形的要素」と、運用術や心理などの「無形的要素」の二つに大別している。そして、「連合艦隊解散の辞」で「武力なる物は艦船兵器等のみにあらずして之を活用する無形の実力にあり。百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」と述べているように、目に見える「有形的要素」だけではなく、成果が見えにくく軽視されがちな「無形的要素」の重要性も説いている。
二面性とは、その物が内包する相対する二つの性格。真之は戦術、戦略、それらを構成する諸要素について、「優劣」、「正奇」、「虚実」、「集散」、「動静」、「恒久不変と千変万化」などという言葉を用いて説明している。森羅万象(宇宙に存在するあらゆる事物)を様々な観点から「陰」と「陽」の二つに分類する古来からの「陰陽思想」に通ずるものがあり、相対する二つの観点から物事を考察する真之の研究姿勢を窺い知ることができる。
真之は古今東西の様々な兵学書を読みあさった。古典兵書の中でも特に名著として名高いものが「孫子」と「戦争論」であり、これは東洋兵学と西洋兵学の代表格とも言える。真之が愛読した「戦略論」の著者ブルーメも「戦争論」の影響を受けている。
「孫子」は中国の最も古い兵書で、春秋〜戦国末期(紀元前770年〜220年)に書かれたとされている。作者は呉王に仕えた孫武と言われているが、はっきりしたことは分かっていない。有名な武田信玄の旗印「風林火山」や四字熟語「呉越同舟」は孫子の一節である。
「戦争論」はプロシアの軍人クラウゼヴィッツ(1780〜1831)の著作で、西洋最高の兵学書と言われている。ナポレオンの登場によって本質的な変貌を遂げた近代戦を分析し、戦争の本性と原型を見極め、後世の戦争哲学に大きな影響を与えた。彼の思想は弟子のモルトケらに受け継がれていった。
「孫子」と「戦争論」とでは、「戦争の目的」に対する考え方が大きく異なる。「孫子」では「出来るだけ戦闘手段を採らずに敵を屈服させる」ことを目的とするのに対し、「戦争論」では「野戦における敵戦闘力の撃滅と無力化」を目的としている。
これは著者が兵学の研究対象とした時代背景の違いも一因である。
「孫子」が書かれたのは群雄割拠の時代。同一民族による内乱を収め、国内統一をすることが目的であったため、統一過程で国力を消耗すると外部の第三国に付入る隙を与えてしまうことになる。そこで、自軍の兵力保持はもちろん、敵の損害もできるだけ抑える事によって、戦勝後に相手の戦力を自軍に吸収して戦力を温存する必要があった。
一方、「戦争論」が研究対象としたのは絶対王政の時代(フリードリヒ2世)、自由主義vs王政の時代(ナポレオン)。国と国との戦争、異なる政治体制同士の戦争であるため、相手の支配権と抵抗力を完全に消滅させなければならなかった。
真之は「戦わずして敵を屈する」という「孫子」の屈敵主義を、自らの軍学の基調としている。
なお、イギリスの軍事史研究家リデルハート(1895〜1970)も真之同様に、クラウゼヴィッツよりも孫子を評価し、「間接アプローチ」(敵主力への直接攻撃ではなく、兵站の破壊や補給路の遮断による間接的な攻撃)を提唱した。
<続く>
「秋山真之の軍学」コンテンツは、下記の文献を参照し、要約してまとめています。
「秋山真之戦術論集」 (中央公論社 戸高一成著)
「戦略論」 (原書房 リデル・ハート著 森沢亀鶴訳)