出身地 |
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生没年 |
1868年〜1904年 |
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海軍兵学校 |
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海軍大学校 |
- |
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日清戦争時 |
扶桑航海士 |
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日露戦争時 |
朝日水雷長 |
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最終階級 |
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伝記、資料 |
「軍神広瀬中佐」(博文館) |
岡藩出身。攻玉社海軍予備校を経て海軍兵学校へ入学し、明治22年に卒業(15期卒)。その後、比叡、筑波などの分隊士を経て、日清戦争では運送船監督、扶桑航海士として従軍したが前線で活躍する機会を得なかった。戦後はロシア研究に励み、明治30年にはロシアへの留学生に選抜される。ロシア留学中に駐在武官に任じられ、貴族階級、士官らと交流するなどロシアの内情を調査し続けた。
帰国後の明治36年に朝日水雷長となり、翌37年に日露戦争を迎える。開戦当初、連合艦隊参謀 有馬良橘の要請で旅順口閉塞作戦の指揮官となり、第一回閉塞作戦では報国丸を指揮。引き続き福井丸指揮官として参加した第二回閉塞作戦では、行方不明となった杉野上等兵曹を捜索後に脱出途中のボート上で被弾し戦死した。その遺体はロシア軍により旅順の墓地に埋葬されたと言われている。
死後「広瀬中佐」は海軍の軍神となり、文部省唱歌の題材になったほか、万世橋駅(秋葉原のあたり)には広瀬と杉野の銅像も建てられるほどの国民的英雄であった。また、海軍柔道の先駆者としても知られ、柔道殿堂にもその名を連ねている。
攻玉社在学中、寄宿舎にH某という傍若無人な室長がいた。彼は容貌恐ろしく、腕力に任せて自分に服従しない者を虐待していたのだが、その報復を恐れて誰も立ち向かわないため、さらに増長していった。そんなある夜、H某はある生徒に無理難題を押し付けたあげく、「貴様、生意気を言うと頬桁を叩き割るぞ」と拳を握り締めて立ち上がった。すると、広瀬はその拳を握り止め、
「おい、ふざけるな! 弱い者いじめは見苦しいぞ」
と一喝した。これに対してH某は、
「なんだ、貴様は広瀬か。下手に口出しすると張り飛ばすぞ」
と脅したが、広瀬は
「おお、張り飛ばせるものなら張り飛ばしてみろ」
と言い、さらに机上にあった短剣を引き抜いて
「勝負なら真剣だ。さぁ来い!」
と大喝した。さすがのH某もこの勢いに驚き、顔色を変えて部屋から逃げ出して行った。
数日後、攻玉社の生徒たちが茶屋に集まった際、復讐を企てていたH某が広瀬に喧嘩を吹っかけ始めた。すると広瀬は、
「売られたケンカなら買ってやろう。しかし、人の居る所でやるのは卑怯だから、こっちへ来い」
と言い、二人は人気のない原っぱで大格闘を始めた。激闘数分ののち、腕力に勝る広瀬はH某を押さえつけ、「こいつ、降参せぬか」と首を絞めつけた。すると流石の乱暴者も降参し、広瀬に詫びを入れた。その後、これに懲りたH某はおとなしくなり、広瀬に会うと首をたれて逃げ隠れるようになった。この様子を見た広瀬はある時に彼を捕まえて、
「おい、喧嘩は喧嘩だ。もう済んでしまえば何でもないじゃないか。もう俺を嫌うな」
と笑いながら諭したという。
江田島の海軍兵学校で級長をしていたとき、広瀬はクラスの生徒を整列させようとしたが、そのうち一人がその命令に違反した。腹を立てた広瀬がこの生徒に鉄拳制裁を加えると、他の生徒たちも反抗的な態度になり、「彼を殴るなら自分も殴れ」と喧嘩腰で詰め寄ってきた。すると広瀬は怯むことなく「よし、打ってやるから整列しろ」と命令して全員を整列させると、一人ずつ殴り始めた。しかし、途中で乱闘になってしまい、職員が駆けつけてようやく騒ぎが収まった。この件で広瀬の退校処分も検討されたが、剛胆な人材を海軍から追い出すのはもったいないということで退校させられずにすんだ。
広瀬がまだ大尉だった頃、海軍軍人約50人で侠客 清水次郎長のもとを訪れた。次郎長がジロリと見渡し、「皆の衆、よく御座ったが、こうして見渡したところでは男らしい男は一匹も居ないなぁ」と言うと、軍人達はその勢いに押されてただ苦笑いするだけであった。しかし、広瀬はいきなり諸肌を脱ぎ「男か男でないかこれを見ろ」と言うなり、自らの拳で鳩尾(みぞおち)を50発ほど殴り続け「どうだっ、この様に殴っても俺の肝っ玉は潰れぬわい」と怒鳴った。これにはさすがの次郎長も驚き、「なるほど、お前さんは男だ」と言った。その後、うち解けて談笑しているときに広瀬が「お前さんはずいぶん生死の境を越えて来た人と聞くが、人と喧嘩して勝つ方法は何だ?」と尋ねると、次郎長はこう答えた「一も肝っ玉、二も肝っ玉ぢゃ」。
後日、広瀬の紹介で小笠原長生が次郎長のもとを訪れると、次郎長は次のように語った。
「広瀬さんは大変元気で面白い人だね。時々遊びに来るが談好きなんだ。いつでも俺が暴れまわっていた時分のことを話して聞かせろって言って、一時になっても二時になっても、もっとやれもっとやれって際限なしさ。俺も自分で面白くなってついついそれからそれへと話して聞かせると、先生「ゆかいゆかい」と言って大口開けて笑うんだ。で、家内でも広瀬さんの笑い声と言えば評判ですぜ」
ロシア駐在中、あるロシア人将校から「日本人は団体としては強いが、個人としては小弱で到底我らの敵ではない」と言われた広瀬は、
「それは面白い。その言葉が本当か試してみよう。貴国海軍の中で最も腕力に優れた三人と勝負をしてみようではないか」
そう言って、広場でロシア海軍選りすぐりの三人の巨漢と勝負し、柔術の技で次々と投げ飛ばして行った。この噂は皇帝の耳にも届き、ロシアの宮中に招かれて柔術を披露することとなった。広瀬はそこでも屈強の将校達を次々と投げ倒し、皇帝らはその技に驚嘆したという。
広瀬が講道館で柔道を習い始めたのは明治十九年頃だった。この当時、海軍内部で柔道をしていたのは八代、財部など数人だけであった。彼らは日曜はもちろん、その他にも時間がある時は道場に通って練習に励んだ。そして明治23年、講道館の紅白試合で5人勝ち抜き、6人目で引き分けとなった広瀬は、試合後に嘉納治五郎からその場で弐段への昇段をゆるされた。
さらに広瀬は、兵学校入学前に通っていた攻玉社の校長より柔道部長就任の依頼があり、明治29年から同校の生徒たちに指導を始めた。これ以前にも広瀬は公務の合間に生徒たちへの指導を行うだけでなく、遠洋航海中に体育会の費用として寄付金を送付したこともあったという。
鈴木貫太郎が少尉候補生の頃、八代は海軍兵学校副官として官舎に住んでいた。貫太郎らが上陸のたびに訪問すると、当時独身であった八代の自宅には広瀬や財部らが集まって臨時の柔道場となっており、常に稽古をしていたという。貫太郎は後に、
「男所帯の所に荒くれ者が来て練習をするのだから、畳が傷むということで学校もだいぶ迷惑していたようでした」
と、この当時の様子を回顧している。
明治37年、旅順口閉塞作戦で広瀬が戦死したことを知った嘉納は、「忠勇と思慮とを天下に示し、講道館柔道の精神を発起した」と讃え、広瀬を四段から六段へ特別昇段させた。広瀬が戦死した際に所持していた海図は、現在講道館の柔道殿堂に展示されている。
ロシアでの勤務を終えた広瀬は、ソリでシベリアを横断して帰国した。そして旅館で髭の伸びた自分の顔を鏡で見て一言「俺の顔は八角時計によく似ているわい」。
第一回旅順閉塞作戦の時、閉塞船を沈めた広瀬らは脱出のために端艇に飛び乗った。雨霰と降り注ぐ弾丸の中、この場から一刻も早く離れようとして必死に漕ぐ部下達を見た広瀬は笑いながら叫んだ。「どうせ明け方まで漕ぎ続けるんだ。急くな急くな。ゆっくりやれ!」。
第二回旅順閉塞作戦で旅順に向かうと夕途中、広瀬が乗船する福井丸は一隻の船に遭遇した。信号でその船が「盛航丸(せいこうまる)」であることを確認した広瀬は、側にいた船長に言った。
「これは目出度いぞ。今度はきっと成功するよ」
普段は真面目な広瀬がめずらしく駄洒落を言ったので、乗員一同大爆笑し、前途の成功を祝して旅順口に向かって行った。
明治19年5月、海軍兵学校の初年生たちは飛鳥山で紅白に軍に分かれ「旗奪い合戦」を行った。このとき広瀬は敵軍の中で奮戦し、遂に敵の旗を奪い取ったのだが、なぜかその顔はいつもより青ざめていた。実はこの時、広瀬は脛を骨折していたのだった。広瀬は「痛い」とも言わず、激痛を堪えて平然と何事もなかったかのように装っていたのだが、三日後には立つことも出来なくなり、仕方なく校医に見せに行った。その足を見た校医が驚いて、「これは一大事だ。このような大怪我をなぜ今まで隠していた。事によると足を切断しなければならないかもしれないぞ」
と言うと、広瀬は涙を流し始めた。広瀬が怪我を隠していたのは、負傷によって退校を命じられる事を恐れていたからであり、足を切断されてはもはや軍人として世に立つことはできない。広瀬は足の激痛に加え、心痛にも耐えながらさらに数日を過ごした。
しかし、幸い怪我は順調に回復し、退校することなく済んだのであった。
日清戦争後、広瀬は部下とともに捕獲艦である鎮遠の清掃を行うことになった。「清掃はまず最も汚れた場所から行うべきだ」ということで便所へ向かったが、勤務とはいうものの敵兵の汚物掃除であるので水兵たちは躊躇した。その様子を察した広瀬は、率先して便所に入ると自ら爪でこびり付いた汚物を剥がし始めた。この広瀬の行動を見た水兵たちも、その後は一生懸命清掃にはげんだという。
真之と餅の食べ比べをし、二十一個食べて勝った広瀬は、普段は酒は一滴も飲まない代わりに、食は普通の人の三人前は平らげるほどであった。明治二十八年頃、広瀬から柔道の指導を受けていた相政弘は、自宅で炊いた豌豆飯を大きな重箱いっぱいに盛って、女中に届けさせた。広瀬はこれを受け取っていったん部屋に戻ったが、しばらく女中を待たせたままで返事もない。女中は、他の容器に移し替えているのだろうと思って待っていると、重箱を抱えた広瀬が戻ってきた。
「旨いものを頂戴してありがたかった。どうぞ宜しく言ってくれ」
女中が重箱を受け取りながら「別の容器に移したのですか」と尋ねると、広瀬はこう答えた。
「なぁに、容器などはないから、今みんな腹の中に入れてしまった」
海軍兵学校で広瀬と同期生であった海軍大将竹下勇は、昭和10年の座談会で広瀬の思い出話を次のように語っている。
「兵学校時代の広瀬はサッパリした朗らかな如何にも気持ちのいい男でした。先刻お話しした朝日は広瀬と縁が深くて、我々が英国で朝日の艤装中に秋山真之(当時米国留学中の)と共にやって来て朝日の受取の当日に祝賀の宴にも列した事があり、日露戦争の時も朝日に居って、あれから閉塞の決死隊に出て居ります。何しろ快活で豪宕な男なので広瀬が乗込んだ船は何となく晴れやかな空気が満ちて成績もおのずと上がるというような風がありました。短艇競漕なども広瀬が居る艦は何時も奇妙に勝つという様な工合でした。広瀬は剛毅果断な性格で君国のためなら如何なる危地にも一身を投げすてて赴くという武士的人物でした。旅順口閉塞の決死隊に真先に参加したのも当然のことです。兵学校時代も友情の厚い男でしたが、艦に乗ってからも非常な部下思いで、部下にみんなから慕われておったそうです。杉野兵曹長を気遣って、二度ならず三度までも捜しに行ったのも、広瀬の性分として、どうしてもそうしなくちゃ居られなかったのです」
『日露大戦秘史 海戦編』より
少尉候補生時代 | 少尉時代 | |
大尉時代 | 少佐時代 |
戦艦朝日の水雷部員集合写真。明治三十七年一月撮影。
二列目向かって右から四人目が広瀬、六人目が杉野。
「正気(せいき)」とは、天地に存在する、物事の根本をなす気のこと。正しい気風、正義という意味もある。「正気歌(せいきのうた)」は、もともとは宋の文天祥が獄中で作った漢詩である。宋の滅亡後、元に捕らえられた文天祥は、その才能を惜しむフビライ・ハンから何度も勧誘を受けた。しかし、文天祥は宋への忠義を貫くために仕官の誘いを断り刑死した。国と主君への忠義を貫いた文天祥の「正気歌」は幕末の志士らに好まれ、藤田東湖、吉田松陰も自作の「正気歌」を作っている。
広瀬の「正気歌」は主君や国への忠義を貫いた人々(赤穂浪士、楠正成とその一族、錦江湾で入水した西郷と月照、小塚原刑場で処刑された橋本左内、吉田松陰、太宰府に流された菅原道真)を例に挙げ、自らも一命を賭して国家と天皇に対する忠義を尽くそうとする意気込みが表れている。
広瀬は第二回閉塞作戦の前に、この漢詩を福井丸の石田前機関長にハンカチに書き取らせたという。
広瀬と真之は、兵学校時代の教官であった八代六郎の紹介でお互いを知るようになったと言われている。二人は互いに尊敬しあい、四谷で家を借りて一緒に住んでいたこともあった。二人の生活は豪快そのもので、例えばカゴの中に数日分のパンを入れておき、それ以外は何も買わずにパンと水だけで過ごすということもあった。この二人の家の向かいに住んでいた女中は、広瀬と真之を次のように評している。
「広瀬さんという人は顔が恐ろしくて武張った人であるけれども、つきあってみると案外優しい人で、近づきやすいが、今一人の秋山さんという人は、顔はそれほどでもなく背も低いが、何となく恐ろしくて近づきにくい人だった」
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