奉天会戦

坂の上の雲 > 軍事 > 奉天会戦


戦闘の経過

 明治三十八年二月、旅順を落とした第三軍を加えた日本軍は、敵に大打撃を与えて早期講和に持ち込むために、ロシア軍に対して一大決戦を挑む。満州軍総司令部はこの会戦を「日露戦争の関ヶ原」と位置付けていた。
 一方、黒溝台会戦で攻撃に失敗したロシア軍も、ちょうどこの頃に日本軍に対する再攻撃を計画していた。十九日、ロシア軍の作戦会議で日本軍左翼への攻撃が決定される。しかし、慎重なクロパトキンは翌日にこの命令を撤回。前線の司令官らに督促されて再度攻撃命令を下したのは二十一日になってからであった。この二日間の延期が日本軍に先手を取られる原因となってしまった。
 満州軍総司令部は二十日に各軍の軍司令官を召集し、作戦命令を下した。そして翌二十一日、日本軍最右翼の鴨緑江軍が動き始める。

 二十三日、旅順から北上してきた第十一師団が後備第一師団の左翼に展開。鴨緑江軍は河家大溝で一時苦戦に陥るが、翌日には清河城を制圧した。清河城陥落の知らせを受けたクロパトキンは、攻撃に第十一師団が加わっていたことから、第三軍がこの方面に進出していると判断し、各方面から引き抜いた師団を清河城方面に投入した。

  二十六日、第十一師団が馬群丹に向かって進軍を開始し、さらにロシア軍左翼を牽制。この機に敵右翼方面からの包囲攻撃を実施させるため、第三軍に進撃開始が命じられた。翌二十七日、第一軍、第二軍、第四軍がロシア軍陣地への牽制砲撃を開始。そして第三軍の各師団はいっせいに北上を始めた。

 三月一日、満州軍総司令部は新たな攻撃命令を発する。これによって、第一軍が鴨緑江軍を支援しつつ正面攻撃を開始。第二軍と第四軍は正面の敵陣地を砲撃、さらに翌日には前進し攻撃を開始した。
 北上を続ける第三軍方面は、作戦の意図に気付いたロシア軍が再度この方面に軍を投入し始めたことから、三月一日の午後から苦戦を強いられるようになった。翌二日、秋山支隊が第三軍に配属されることとなり、好古は北上を開始する。三日、田村支隊と合流した秋山支隊は大房身でビルゲル支隊を撃退、さらに四日には奉天西方に進出する。

 全線で攻撃を開始した日本軍ではあったが、各方面でロシア軍の頑強な抵抗にあう。五日には万宝山攻撃中の第十師団が敵の逆襲を受けて大損害を出し、さらに六日には大石橋の日本軍守備隊がロシア軍の攻撃を受けて潰乱した。戦況は膠着状態となる。

 ところが七日、突然のロシア軍後退によって戦況が動き出す。第三軍による攻囲を恐れたクロパトキンが、戦線整理のために第1軍、第3軍に渾河の線への退却を命じたのであった。これに呼応する形で第一軍、第四軍はロシア軍を追撃。第六師団が沙河堡と漢城堡を攻撃して占領した。一方、逆に前面の敵軍が増強されつつあった第三軍方面はさらに苦戦を強いられ、八日には第一師団がロシア軍の逆襲を受けて潰乱敗走した。
 満洲の広野に大風塵が起こった九日、クロパトキンが各軍に対して鉄嶺への退却を命令する。日本軍は後退するロシア軍を追う形で撫順、毛家屯北方に進出するが、追撃する余力は残されていなかった。十日、日本軍は奉天を占領。翌日には第六師団に包囲されたロシア兵約一万が投降したが、敵主力の大部分は北方に逃すこととなってしまった。


 奉天を占領した日本軍はさらに北上を続け、十三日には興京を占領、十六日には鉄嶺を占領する。さらに開原、昌図を占領し、二十二日には秋山支隊が昌図城に、第三軍が法庫門城に入城した。しかし、奉天会戦で戦力を消耗した日本軍には、さらに決戦を行うだけの余力は残されていなかった。そのため、満州軍は前進を止め、児玉が帰国し本国での講和を交渉促すこととなる。





二月二十一日、奉天会戦に備えて配備された二十八糎砲



三月一日、北上する第三軍司令部



三月三日、沙嶺堡の東方における歩兵第十五連隊の戦闘



三月六日、大石橋で砲撃を行う野戦砲兵第十七連隊



三月七日、歩兵第四十連隊第三中隊の戦闘準備



三月七日、重砲兵連隊第二大隊の砲撃


三月九日、王石郎溝南方で休止中の近衛後備混成旅団



三月十一日、撫順占領



三月十五日、大山総司令官ら満州軍総司令部の奉天入城



逸話

 北上を続けていた第三軍では各師団間の連携がうまくとれず、第九師団と第七師団との間に空隙ができてしまうこともあった。第一師団と共に行動していた津野田が状況報告のために軍司令部に帰還すると、松永参謀長は病気で寝込み、幕僚も事務に忙殺されて他を顧みる余裕がない状況である。そこで、津野田は乃木の居室に入っていった。乃木から「何を怒鳴りにきた?」と尋ねられた津野田は「いいえ、何も怒鳴りに参ったわけではありません・・・。しかし、一体今日の有り様は何です。また、明日はなぜ現在地に停止せよと内命されたのでありますか」と問いただした。すると乃木は「今日のことは何も求めてしたのではない。全く自然の成り行きでこうなったのだ、それに明日の停止は総司令官の命令だから仕方ない。」と、津野田にウィスキーを勧めながら懇切に諭した。


9日の日没頃、総司令部より全軍総攻撃に関する命令が発せられた。その後、さらに児玉は電話で各軍司令部に次のように伝えた。「奉天付近に約七万の魚が居る。明十日はなるべく早く日本全軍で手際よく投網を打ってこの魚を逃さぬように網の中に入れろ」


 10日午後、ロシア軍追撃を続ける第十師団の司令部に突然前線の連隊長が現れ、「まことに無理なお願いですが、我が連隊を後方に下げて予備隊にしていただけないでしょうか」と言い出した。師団長が訳を聞くと、「前線の将兵が、敵が遺棄した樽を見つけて壊したところ、中から飲料水のビンが出てきました。喉が渇いていた我が兵は喜んでこれを飲んだのですが、しばらくすると非常に酩酊してきて目がチラチラし、射撃が出来なくなりました。調べてみると、それはフランス産の上等なシャンペンでした。こういうわけで、まことに残念ですが予備隊に入れて頂きたい」。師団長はこれを聞き入れてその連隊を予備隊にまわすと共に、前線よりそのシャンペンを取り寄せ、退却する敵を眼下に眺めながら祝杯をあげた。


 津野田は第一師団司令部に同行して退却するロシア軍を追撃中、約4km前方を一個中隊の騎兵に護衛された敵の高等司令部が鉄道に沿って旗幟堂々と退却していく様子を目撃した。これがクロパトキンの司令部一行であった。


 奉天会戦のころになると、日本軍の野砲は故障が多くなったうえに、急造された砲弾に中には不発弾も多数あった。戦後、ロシア軍の陣地には大量の日本軍の不発弾が丁寧に並べられていた。これを見たある参謀が一句「撃ち込みし わが砲弾の 昼寝かな」。


 奉天攻略後のある夜、第四軍司令部で宴会が催された。その席上である若い参謀が「総司令部の奴らは虎の威を借りてずいぶん無理な要求をする。軍首脳部の総司令部に対する態度は甚だ軟弱だ」と言い出した。すると、滅多に怒ったことのない上原参謀長が「軟弱とは何だ。軍隊にあって上級司令部の命令は神聖のものとして服行しなければ戦に勝てるものではない。高級司令部の命令は陛下の命令と心得て絶対服従だ」と怒鳴った。実際、軍司令官の野津は総司令官の大山とは同郷であり、出世もほぼ同時であったことから、おとなしく大山の言うこと聞くようなタイプではなかったが、最後まで総司令部の命令に従っていた。翌日、この参謀が謝りに行くと上原は、「若い時はあれくらい元気がなくちゃいかん、昨夜はだいぶメートルが上がったね」と前夜のことは忘れたかのように言った。


 奉天落城後、付近の部落で待機して軍路作業に従事していた鹿児島連隊の古荘末男連隊長は、満洲の広野には花一輪もなく、兵士の心を荒ませていることを遺憾に思っていた。ある日、路傍で東菊に似た花を一輪見つけた古荘は、その花を持ち帰って花壇を作り、しきりに手入れをしていた。すると、それを見た兵士たちは「連隊長殿の花が咲く頃、我々はどこに居りますやら。後花ですな」とからかっていた。しかし、その後もそこに数か月滞在することとなり、花壇いっぱいに咲き乱れた花々は兵士たちの心を慰めることとなった。最初はからかっていた兵士たちも感心し、花を部屋に持ち込んで鑑賞していたという。


 奉天会戦でロシア軍を撃破した日本軍であったが、その損害も非常に大きかった。総司令部作戦参謀の松川は「一将巧成り万骨枯れる」ことにならないようにと自らを戒める意味で日誌に「吾人総司令部の幕僚たるもの幸いに凱旋するの期あるも、功名顔を為すべきに非ず」と記した。


 奉天会戦後のある日、第一軍参謀の福田が松川のもとを訪れた。このとき松川は、福田に対して「本攻と副攻との区別を例をあげて説明せよ」と、陸大の講義のような問題を課した。これに対して福田は「本攻副攻共に手段方法に異なるなきも、大元帥閣下の御稜威の下に軍司令官以下将卒結束して身命を捧げ、金城鉄壁と優勢の敵を物ともせず、真剣に攻撃するをこれ副攻と称す。奉天会戦に於ける第一軍は即ちその適例にしてよって、以て露軍四十大隊を牽制するを得て、全局の大勝を博せるなり」と回答した。この答えは学理上の副攻に対する明答ではないが、牽制という主力攻撃(本攻)の補助的役割を単なる脇役としてではなく、主力並に役割を果たしたという第一軍司令部の意気込みを表している。