一戸兵衛

坂の上の雲 > 登場人物 > 一戸兵衛【いちのへひょうえ】


一戸兵衛

出身地

弘前藩

生没年

1855年〜1931年

陸軍士官学校

兵学寮

陸軍大学校

日清戦争時

歩兵第十一連隊長
第五師団副官

日露戦争時

歩兵第六旅団長
第三軍参謀長

最終階級

陸軍大将

 地元の藩校、私学で学んだ後、友人と上京し明治7年に陸軍兵学寮内の戸山学校に入校。卒業後に少尉候補となり、明治10年の西南戦争に従軍した際には重傷を負った。その後も小隊長、中隊長、参謀など部隊勤務を経て、明治27年の日清戦争では歩兵第11連隊長、第5師団副官を務めた。
 明治37年の日露戦争では第6旅団長として旅順攻略戦に参戦。第二次総攻撃では先頭に立って攻撃を指揮し、後に「一戸堡塁」と命名される盤竜山P堡塁を奪取して勇名を轟かせた。奉天会戦後は松永正敏の後任として第三軍参謀長に起用される。戦後は師団長、軍事参議官、教育総監などを歴任し大将に昇進。退役後は学習院院長、帝国在郷軍人会会長などを務めている。

一戸のエピソード

猛勉強の成果

 戸山学校時代の一戸は数学が苦手で、その成績はビリであった。最初は津軽の田舎生まれだから頭が悪いのだろうと諦めていたが、「オラだってそんなに馬鹿ではないだろう」と思い、ある日曜日に同級生が外出しても一人だけ居残って何時間もかけて問題を解いた。その甲斐あって翌日の試験では幾何学で全問正解したのだが、あまりにも突然の出来事だったので教官たちから「一戸は不正をしたのではないか」と疑われてしまった。この時、一戸は「不正はしていません。次の試験で見ていて下さい」と潔白を主張した。
 後年、学習院院長になった時には教員たちにこの逸話を例に「できない生徒も何かの機会を与えられたら出来るようになるかもしれない」と語ったという。


乃木に一目置かれる

 西南戦争が終わり、歩兵第一連隊に勤務していた頃のある日、一戸は週番勤務を終えて自宅に戻った。一休みして読書をしていると、外では急に大雨が降り出した。しばらくして、中隊から使いが来た。在番の少・中尉達が腹痛や下痢を理由に週番に就かないため、帰宅したばかりの一戸に再度週番を頼みたいとのことであった。一戸は大雨の中、再び連隊に戻った。
 数日後、この件を知った連隊長の乃木は、仮病を理由にして週番を怠った将校達を叱責すると共に、これ以来一戸に一目置くようになった。


船酔いに耐えて巡視

 日清戦争で出征した際、一戸も兵士たちも皆船酔いで寝込んでしまった。それを見た上原勇作が「こんなざまでは戦はできないな」と言ったところ、一戸は刀を杖にして立ち上がり、顔面蒼白となりながらも船内を巡視して兵士たちに声をかけて行った。「その後で一度にゲェっと吐いたのが印象に残った」と上原は晩年に語っている。


身をもって範を示す

 旅団長になった時でも、師団長になった時でも、一戸の就任の訓示はいつでも「皆、自分の通りにせよ」であり、一戸自身が常に身を以て範を示し続けていた。


陣中の一戸

 陣中で待機している際は戦線に居ることを忘れたかのように読書に耽り、時々爆発する敵弾の音で我にかえる事もあった。また、舎営の前には小さな松を三本植え、さらに変形した敵弾で石燈籠のようなものを作って置き、時々これらを眺めていたという。


酒の呑み方

 日露戦争中、一戸が外国の観戦武官を招いて陣中で宴会をしたときに、他が皆酔いつぶれても一戸だけが平然としていた。この様子を見た津野田が「閣下はどうして酒にお強いのですか?」と尋ねると、一戸は笑いながら「呑み方がある。多量に飲むときは、まず少し飲んで腹八分の食事をとり、少し運動をしてからまた飲みなおせば大丈夫だ」と答えた。


大島師団長の一戸評

 師団長であった大島久直は後に「主将の資格は、戦争中に生じる悲惨な光景に心を動かさず、不利な状況に自恃心を失わず、あくまでその目的を遂行する堅確なる意志を有しなければならない。一戸少将の如きは確かにその人である」と評している。