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出身地 |
陸軍士官学校 |
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生没年 |
1852〜1919年 |
陸軍大学校 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
満州軍参謀 |
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講武所や大学南校で学び、江藤新平の推挙で文官として司法省へ出仕。その後陸軍省へ移り、征討総督府の書記官として西南戦争に従軍した。士官登用試験を経て陸軍に入ると、語学力を生かして朝鮮、清、インドの視察に差遣された。明治25年、公使館付武官として赴任していたドイツから帰国する際にシベリアの単独横断を敢行し一躍有名になる。その後もトルコや安南の実地調査に従事し、明治27年の日清戦争では第五師団参謀として出征。明治33年の北清事変では臨時派遣隊司令官として鎮圧軍の指揮を執ったほか、各国指揮官との折衝も担当した。明治37年、日露戦争が勃発すると満州軍総司令部の参謀として出征し、諜報指揮で手腕を発揮している。戦後は参謀本部次長、関東都督を務め、大正3年に大将進級と同時に予備役へ編入。 江藤新平との出会い明治2年に上京して大学南校に入学したが、廃藩置県によって藩費による遊学が出来なくなったため、数十日間を切り干し大根だけの食事で過ごすという悲惨な境遇に陥ることもあった。しかし、明治5年に江藤新平と出会い、江藤の書生を経て司法省の職を得ることができた。ある時、福島が腹痛で寝込んだ事を知った江藤は、まず家人に命じて飯を炊かせ、それを布で包んで福島の腹を暖め、冷めるとまた飯を炊かせる・・・・という事を繰り返して、夜明けまで看病をしたという。江藤が佐賀の乱で刑死した後も福島はその恩義を忘れることなく、家の神棚に江藤の霊を祀って日々礼拝を重ねたという。亡くなる前年には江藤の墓参のため佐賀を訪れている。簡単な生活シベリア横断から帰国後、ある客に次のように語った。「私はどこに旅行しても着のみ着のままだ。食べ物は至る所で求めるという覚悟であり、土人の所では土人の物を食い、文明人の所では文明人の物を食う。もともと食物は、人間の食っているものなら誰でも食べることができるはずだ。あれが旨いのこれが旨くないのと言う事は、私は全く問題にしない。住まいもそうだ。立派なところに居るものだから、外へ出て不平不満が起こることになる。平素から簡単な生活をしていれば、どこへ行っても満足できるものだ」。軍人中の外交家指揮官、参謀としての能力についてはあまり評価されず、「薩の海軍・長の陸軍」で鵜崎鷺城からは「武人としては兎角の批難あり。酷評すれば参謀本部の通訳に過ぎざるのみ」とまで評されている。しかし鵜崎は同書で「然れども極めて温良の好紳士にして、また職務に熱心なり。要するに彼の長所は戦術戦略に存せず寧ろ別にあり。一言にして評すれば彼は軍人中の外交家にして驚くべき調和の才を有し、その対人術の巧妙なる確かに独特と云うべし。これ彼が藩閥の出身にあらずして能く今日の位置を保つ所以にあらざるを知らんや」とも評している。 |
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出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1858〜1926年 |
海軍大学校 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第二艦隊参謀長 |
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出身地 |
陸軍士官学校 |
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生没年 |
1860〜1945年 |
陸軍大学校 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第1軍参謀長 |
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明治8年に陸軍戸山学校へ入学し、そこから転じて秋山好古と同期で陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。参謀本部第2局員、陸大教官などを務め、明治27年には第二軍参謀として日清戦争に出征。その後はオーストリア公使館付武官を経て陸大勤務となり、教頭、幹事を歴任し明治35年に陸大校長に就任。在職中の明治37年に日露戦争が勃発すると第一軍参謀長に抜擢され、司令官の黒木為驍補佐して緒戦の鴨緑江の戦いを勝利に導いた。戦後は陸軍砲工学校長、東京湾要塞司令官、野砲兵監、第12師団長を務め中将に昇進したが、大正3年に弟の光五郎がシーメンス事件で有罪となり、その責任を取る形で依願待命となった。退役後は日清・日露戦争の回顧談を出版したほか、昭和10年の日露戦争三十周年の座談会参加、企画記事の寄稿などをしている。 大山にからかわれる@日露戦争中のある日、大山が第一軍司令部へ視察に来ることになった。そこで藤井は日清戦争中にもらった鶏肉のお礼に何かご馳走をしようと思い、狩りに出かけた。そして藤井は自ら撃ち落とした雁を料理して出したのだが、梅沢道治は「藤井が買ってきたんだ」と言って、撃ち落としたことを信じない。さらに大山は「雁が病気だったんだろう」と言ってからかった。大山にからかわれるA日清戦争中のある日、藤井は大山と寺内を威海衛の台場に案内することになった。しかし、地図が不完全であったことと、その日は雨で先がよく見えなかったため、途中で藤井は方向を間違えて道に迷ってしまったことに気がづいた。そこで「申し訳ありません。方角を間違えたので後ろにお戻り下さい」と報告したところ、大山は叱ることもなく「寺内さん、ご覧なさい。藤井参謀の誘導ぶりはこんなものです」と側の寺内に語った。後に藤井は「あの時は穴があったら入りたいと思った」と回顧している。出征前の校長訓示日露開戦前の二月六日、動員下命によって出征師団に関係のある陸軍大学の学生たちは帰隊を命じられた。校長の藤井は学生たちに対して「今度の戦争は勝敗の程は分からぬ。恐らくこれが諸君との別れだろう」と語ったという。この逸話は当時二年生だった荒木貞夫が、藤井も出席した戦後の座談会で語っている。 参謀長の責務鴨緑江会戦後、第一軍の司令部では敵軍がどの方面に主力を向けてくるかということについて「東進して第一軍を攻撃する」「南進して旅順の部隊と共に第二軍を挟撃する」という二つの意見に別れた。この時、藤井が観戦武官たちのもとを訪れると、司令部同様に意見が分かれていた。ドイツの観戦武官が「藤井君、我々の間では両説あるが、君はクロパトキンがどの方面に主力を向けると思っているかね」と尋ねると、藤井は「貴君らは何の心配もなく戦場の惨劇を見学する人である。しかし、自分は大きな責任があるから遺憾ながら意見を述べる事由はない」と答え、明言を避けた。 |