「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【か】

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片岡七郎【かたおかしちろう】


出身地

薩摩藩

海軍兵学校

3期

生没年

1853年〜1920年

海軍大学校

最終階級

海軍大将

日露戦争時

第三艦隊司令長官


 維新後に兵学寮に入学し、卒業後に伏見宮の随員としてドイツへ留学。扶桑砲術長、筑紫副長、兵学校教官、天龍艦長、佐世保鎮守府参謀などを務め、日清戦争では金剛艦長として威海衛で遅い初陣を飾った。
 日露戦争では旧式艦で編成された第三艦隊の司令官に就任。この微弱艦隊を率いて朝鮮海峡の守備、旅順封鎖などに従事。日本海開戦後は北遣艦隊司令長官として樺太攻略にも参戦している。
 戦後は第1艦隊の司令長官、艦政本部長、舞鶴鎮守府司令長官、軍事参議官を歴任し明治43年に大将に昇進。薩摩出身でありながら公正な人物として知られており、シーメンス事件処理では軍法会議判士長に選任されている。


薩閥一の人格者

 「薩の海軍」と称されていた当時、薩摩出身の提督は閥外者から敵視されることもあったが、徳望の篤い片岡だけはその例外であったという。著書「薩の海軍、長の陸軍」で藩閥の軍人らを酷評していた鵜崎鷺城も、片岡については「天質温厚にして人格の人としては恐らく薩の将官中第一に居るべし」と好意的に評価している。


上村なら耐えれない

 八島、初瀬が沈没した直後、一時的に片岡が日進、春日の二艦を率いて第一戦隊に編入されたことがあった。これは独立して活動のできる第三艦隊司令長官という立場でありながら、他の戦隊司令官と同列で東郷直属の指揮下に入るというものである。参謀の百武三郎は後に「もしこれが上村長官のようなご性質の人であったなら果たして耐え得られたであろうか、と私は思うのです。(中略) この間において長官の態度を見ておりますと、実に鹿児島人に似合わないような優しい謙譲な、そして勤勉な平常の長官が矢張りこの場合においても我々幕僚として付いて居ってお気の毒と思うほどの状況の下にあっても少しも変る所がない、そしてすることだけは勉励されたのです」と回想している。


部下の進言をよく聴く

 片岡は単なる仁将ではなく、海戦においても明敏適切な戦術眼で事態を処理していた。無暗に下知を出すことも無く、部下の進言もよく用いていた。幕僚が片岡の性格に反したような無理な進言をすることもあったが、それでも理があればその案を採用していたという。



桂太郎【かつらたろう】


出身地

長州藩

陸軍士官学校

生没年

1847年〜1913年

陸軍大学校

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

内閣総理大臣


 先祖は毛利元就の重臣 桂元澄。戊辰戦争では大隊司令として奥州各地を転戦する。維新後に兵学寮に入るが、中退しドイツへ留学。帰国後は山県有朋の下で軍制改革に従事した。日清戦争では第3師団長として出征し、その後は台湾総督、東京防禦総督などを歴任。
 明治31年には第3次伊藤内閣の陸相に就任し、大隈内閣、第2次山県内閣、第4次伊藤内閣と続けて留任。明治34年に首相となり、日英同盟締結や日露戦争中の戦争運営で手腕を発揮した。人の懐柔に巧みで、ニコっと笑いポンと相手の肩をたたくところから「ニコポン宰相」と呼ばれている。
 戦後は西園寺公望と交代で首相を務め(桂園時代)、第2次内閣では日韓併合、関税自主権獲得を実現させたが、第3次内閣では憲政擁護運動により退陣に追い込まれた(大正政変)。


出生届の遅れで罰金

 戸籍法発布以来、出生や死亡の届け出を怠って科料に処せられる者が続出していた。桂も明治32年に子供が生まれた際、10日過ぎてから出生届を出したため裁判所から科料五円を命じられた。桂家の執事がこれに驚き、「他の連中は五十銭から一円程度なのに五円は高い、負けてもらえないか」と役所で申し出たところ、側にいた人々が思わず吹き出し、その噂が東京中に広まって新聞にまで載ってしまった。


自業自得で援軍要請

 日清戦争で第三師団長として出征した桂は、敵襲に備えるため終夜極寒の中に兵卒を立たせ、多数の凍傷者を出してしまった。そのため、自軍の形勢が不利であるという理由で軍司令部に増援要請を出し続けたのだが、当時は増兵無しでも十分敵を追撃できる戦況であったため、桂の指揮能力に対する評判は悪くなってしまった。


先に記者に謝る

 日露戦争の講和会議で賠償金を取れるとは思っていなかった桂だが、首相という立場上、虚勢を張っていた。しかし、その虚言に怒った一人の新聞記者から講和に反対され、桂も困ってしまった。数年後、桂のもとを訪れたその新聞記者が「先年は・・・」と謝ろうとしたところ、それを察した桂が先に「あの時は僕が悪かった。君を騙してすまなかった」と頭を下げた。




加藤高明【かとうたかあき】

 1860年〜1926年。尾張藩出身。東京大学法学部を首席で卒業後、三菱に入社して岩崎弥太郎の娘と結婚。明治20年に陸奥宗光の勧めで外務省に入り、外相秘書、駐英公使などを歴任し、伊藤、西園寺、桂内閣では外相を務めた。大正3年には大隈内閣の外相に就任し、第一次世界大戦への参戦、対華二十一ヶ条要求などを推進した。大正13年に首相となり、在職中に普通選挙法、治安維持法を制定した他、日ソ基本条約の締結、宇垣軍縮などを実現させている。



加藤恒忠【かとうつねただ】


出身地

松山藩

出身校

司法省法学校

生没年

1859年〜1923年


 正岡子規の叔父であり、秋山好古とは幼馴染。三男、忠三郎は律の養子となり、正岡家を継いでいる。
 明治9年に司法省法学校に入学したが、校長に反発し陸羯南、原敬らと退校。中江兆民の私塾を経てフランスへ留学する。帰国後に外務省に入り、ベルギー公使、万国赤十字会議全権代表などを務めたが、明治40年に退職した。その後は大阪新報社長、衆議院議員、貴族院議員などを務め、大正11年に松山市長に就任。陸軍省から城山公園を払い下げて市民に開放し、松山高等商業学校の創立にも尽力したが、在職中の大正12年に食道癌で死去した。

金利は取れない

  ある日、金に困った加藤が収集していた硯を売るという噂が流れた。それを聞いた資産家の友人が大金で買い取ろうとしたところ、加藤はこの申し出を拒否。そして数日後、加藤はその硯を別の友人に原価で売ってしまった。後に資産家の友人がこれを聞き、「何で僕に売ろうとしなかったんだ?」と尋ねると、加藤は 「君が高値で買おうとしたから嫌になった」と答えた。その友人が 「でも、君が買ったときより物価も上がったし、金利のこともあるから当然だよ」と言うと、「馬鹿なこと言うな。友人から金利なんて取れないよ」と、加藤は平然と答えたという。


地元代表ではない

 愛媛県選出の議員になった時のこと、東京へ向かう加藤を見送りに来た地元の有力者たちに対し、「私は特に地元のために働くというようなことはしないからね」と語った。


尻から飲んだ

 食道癌を患った加藤は、最後の三十数日間は飲食が出来ない状態であった。そんな中、西園寺公望から見舞として葡萄酒が送られてくると、「お見舞いの葡萄酒有りがとう。尻から飲んで酔いました」と謝電を発したという。




加藤友三郎【かとうともさぶろう】


出身地

広島藩

海軍兵学校

7期

生没年

1861年〜1923年

海軍大学校

甲号学生第1期

最終階級

元帥海軍大将

日露戦争時

第二艦隊参謀長
連合艦隊参謀長


 広島藩出身。広島藩校修道館を経て、海軍兵学校7期卒業、海軍大学校甲号1期卒業。日清戦争では巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍した。その後、軍務局課長、海大教官を経て、日露戦争では第二艦隊の参謀長として蔚山沖海戦などに参戦。黄海海戦後には島村速雄の後任として連合艦隊参謀長に就任し、日本海海戦では東郷平八郎、秋山真之と共に三笠艦橋で指揮を執った。
 日露戦争は山本権兵衛にその手腕を買われ、軍務局長から海軍次官へと栄進。呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官など要職を経て、大正4年に第二次大隈内閣の海軍大臣に就任した。以降4代内閣に亘って留任し、在職中は「八八艦隊建造計画」や軍縮などの軍政面で能力を発揮。大正10年のワシントン会議では全権として軍縮を推進し、各国の出席者からも高く評価された。大正11年には首相に就任し、シベリア撤兵や山梨軍縮を実現させるが在任中に死去。亡くなる前日に元帥となった。加藤家は半年前に養子に迎えられた同郷の船越隆義(後の海軍大将 加藤隆義)が継いでいる。


詳細情報

 加藤のエピソードは個別ページ「加藤友三郎」に掲載。




加藤寛治【かとうひろはる】


出身地

福井県

海軍兵学校

18期

生没年

1870年〜1939年

海軍大学校

最終階級

海軍大将

日露戦争時

三笠砲術長


 攻玉社を経て海軍兵学校へ入学。首席で卒業後、浪速分隊士、砲術練習所学生、富士回航委員などを務め、明治32年から3年間ロシア駐在した。日露戦争では三笠の砲術長として黄海海戦に参戦し、新しい砲戦指揮法を実戦導入した。戦後は海軍大学校校長、連合艦隊司令官、軍令部長など要職を歴任し大将に昇進。
 大正〜昭和初期にかけての軍縮条約反対派の中心人物であり、首席随員として参加したワシントン軍縮会議では条約推進派の全権 加藤友三郎と対立。また、ロンドン軍縮条約も東郷平八郎を担ぎ出すなどして強硬に反対していた。


同じ首席でも

 太平洋戦争後、水交社では海軍軍人による反省会が行われた。その席上、野元為輝少将(元瑞鶴艦長)は兵学校教育を論じていく中で、記憶力を主として成績上位を占めた軍人がその後は勉強もせずに出世していったことを問題視している。野元は秋山真之と加藤寛治の実名を挙げ、同じ首席でも創造性のある真之と、猛勉強による記憶式の加藤とでは違うと述べている。そして、「秋山さんがもし無事にしておられたら海軍の空気は非常に違ったろう」とも述べている。(参考文献:『[証言録]海軍反省会』(PHP研究所 / 戸高一成 編)。第八回、第十回の二回にわたり同様の主張をしている)



金子堅太郎【かねこけんたろう】

 1853年〜1942年。福岡藩出身。明治4年に岩倉使節団に同行しアメリカへ留学。ハーバード大では小村寿太郎と共に法律を学んだ。帰国後は東京大学予備門英語教員などを経て元老院へ出仕し、総理秘書官、大書記官などを務め、大日本帝国憲法や皇室典範の起草に従事した。その後は農商務相、法相、枢密院顧問などを歴任。明治37年に日露戦争が勃発すると伊藤博文の要請で渡米し、ハーバード大の同窓生であったルーズベルト大統領に日本支援を要請した。日露戦争後は枢密顧問官、維新史料編纂会総裁、二松学舎専門学校舎長などを歴任。また、三木武夫(後の首相)らと日米同志会を結成したが、日米開戦の翌年に死去。




樺山資紀【かばやますけのり】


出身地

薩摩藩

海軍兵学校

生没年

1837年〜1922年

海軍大学校

最終階級

海軍大将

日清戦争時

軍令部長


  薩英戦争、戊辰戦争に従軍し、維新後に陸軍少佐となる。明治10年の西南戦争では熊本鎮台の参謀長として熊本城に籠城。戦後、警視総監から海軍に転じ、軍務局長、海軍次官を経て明治23年に海軍大臣に就任。海相在職中には薩長藩閥の政府を正当化した「蛮勇演説」を行っている。明治27年、日清戦争が勃発すると軍令部長の地位に在りながら、慎重な伊東祐亨連合艦隊司令長官を督戦するために「西京丸」に乗艦し黄海海戦に参加した。下関条約で台湾割譲が決まると初代台湾総督に就任し、その後は枢密顧問官、内務大臣、文部大臣、教育調査局総裁などを歴任した。


熊本籠城戦

  西南戦争中の熊本城籠城戦において樺山は二度負傷したが、病床に伏せることなく戦線で指揮を執り続けた。また、軍議中の櫓に薩摩軍の砲弾が命中しても泰然自若としていたという。



上村彦之丞【かみむらひこのじょう】


出身地

薩摩藩

海軍兵学校

4期

生没年

1849年〜1916年

海軍大学校

最終階級

海軍大将

日露戦争時

第二艦隊司令長官


  薩摩藩出身。野津鎮雄の配下として戊辰戦争に従軍。明治4年に海軍兵学寮に入り、在学中に台湾征伐に出征した。その後、千代田航海長、大和副長、横須賀鎮守府参謀、鳥海艦長などを務め、明治27年の。日清戦争では秋津洲艦長として黄海海戦で戦功を挙げた。日清戦争後は軍務局長、軍令部次長、教育本部長など主に軍政畑の要職を歴任した。
 明治37年、第二艦隊司令長官として日露戦争に従軍。当初はウラジオ艦隊を捕捉できず各方面から「無能」と非難され続けた。しかし蔚山沖海戦で敵艦隊を撃破し、その際にロシア水兵を救助するという武士道を重んじる態度が賞賛されることとなった。日本海海戦に於いても臨機応変に対応し、バルチック艦隊の進路を遮るなど戦勝に貢献している
 戦後は横須賀鎮守府司令官、第一艦隊司令長官、軍事参議官を歴任。終生海上の戦将として過ごしたが、陸軍の黒木為體ッ様その豪胆な性格ゆえに元帥になれなかったと言われている。


詳細情報

 上村のエピソードは個別ページ「上村彦之丞」に掲載。




鴨川正幸【かもがわまさゆき】

 好古とは同年齢であったが、家が離れていたため接点は無かった。師範学校に入ってからは唯一の同郷者ということで交友がはじまり、卒業まで同居していた。二人とも実家が貧乏士族であり、裏が破れた好古の羽織と表が破れた鴨川の羽織とを張り合わせて一枚の羽織を作り、外出時には交代で着ていったと言われている。帰郷後は教育事業に携わり、松山市収入役も務めている。



川上操六【かわかみそうろく】


出身地

薩摩藩

陸軍兵学校

生没年

1847年〜1899年

陸軍大学校

最終階級

陸軍大将

日清戦争時

参謀次長


 藩隊の分隊長として戊辰戦争に従軍し、維新後は陸軍に出仕。明治10年の西南戦争では歩兵第十三連隊を指揮して熊本城の籠城戦を戦い抜き、日豊方面の進撃戦でも戦功を挙げた。明治15年には大山巌らと兵制視察のため渡欧し、帰国後参謀次長に抜擢される。明治20年にドイツへ留学し、モルトケらから用兵作戦を学んだ。明治22年に再び参謀次長に就任し、教範改訂や兵站整備など軍制改革の中心を担った。明治27年、陸奥宗光外相と共に日清開戦を主導し、開戦後は上席参謀を兵站総監を兼任して作戦を立案遂行した。戦後、参謀総長として対露戦の作戦計画を研究していたが、過労のため急死。


鶴嶺城頭月光青

 西南戦争で故郷薩摩に進軍した川上は、陥落した城山を見て断腸の思いで次の一詩を詠んだ。
 
 回顧当時茫似夢  回顧すれば当時茫(ぼう)として夢に似たり
 四邊残壘血猶腥  四辺残の塁、血なお腥(なまぐさ)し
 忠魂何處呼無答  忠魂いずくにぞ呼べども答え無く
 鶴嶺城頭月光青  鶴嶺城頭(かくれいじょうとう)月光青し


このオヤジ兵を解せず

  山県有朋は日清開戦に慎重であり、参謀本部の会議でも主戦派の川上と激論を交わしていた。川上は遂に「このオヤジ、兵を解せず」とまで放言したが、山県が怒って退席すると後を追って謝罪し、「国の大事を議する時に、閣下に去られては成るところがない」と懇願して再び会議の席に戻したという。


借金で知人に融資

 知人が日清貿易研究所を設立して金に困っていた時、川上は自宅を担保に四千円を用立てた。これを聞いた頭山満は「今の軍人どもには薬にしたくても出来ないことだ。武人が銭に執着するようになったらおしまいだ」と評している。



河東碧梧桐【かわひがしへきごとう 】


出身地

松山藩

出身校

第二高等学校

生没年

1873年〜1937年

所属

新傾向俳句


 本名は秉五郎。藩の道学者 河東静渓の五男として生まれる。兄 竹村鍛の友人であった正岡子規から野球を習ったことがきっかけで、その後俳句の添削を受けるようになる。伊予尋常中学時代には同級生となった高浜虚子を俳句に誘い、卒業後は共に第三高等学校、第二高等学校へ進学する。しかし、文学の道を志して中退。虚子と共に上京した碧梧桐は子規の庇護を受けながら句作に打ち込んだ。子規から「印象の明瞭なる句」とその写生的句風を称賛されるなど、子規門下生の中で確固たる地位を得た碧梧桐は、子規没後に「日本」「日本及び日本人」の俳壇担当を引き継いだ。
 明治38年頃からは「新傾向俳句」に走り、全国遍歴の旅にでる。やがて「守旧派」の虚子と対立するようになり、昭和8年の還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を発表した。その4年後、腸チフスによる敗血症で亡くなった。

詳細情報

 碧梧桐のエピソードは個別ページ「河東碧梧桐」に掲載予定(作成準備中)。



川村景明【かわむらかげあき】


出身地

薩摩藩

陸軍士官学校

生没年

1850年〜1926年

陸軍大学校

最終階級

元帥陸軍大将

日露戦争時

第十師団長
鴨緑江軍司令官


 14歳の時に薩英戦争で初陣し、戊辰戦争では鳥羽、伏見、野州梁田、会津などを転戦。維新後に軍曹として御親兵に加わり、萩の乱、西南戦争に従軍した。日清戦争では近衛歩兵第一旅団長として台湾に出征。日露戦争では第四軍隷下の第十師団長として出征し、沙河会戦に於ける三塊石山夜襲などを指揮。奉天会戦前に鴨緑江軍司令官に抜擢され、清河城方面のロシア軍と対峙した。鴨緑江軍は後備役兵を中心とした編成であったが、敵に日本軍主力と思わせる戦いぶりで奉天会戦の勝利に貢献している。
 約2年の参謀本部勤務を除くと連隊長、鎮台参謀長、旅団長、師団長など常に部隊指揮官であり続けた川村は、日露戦争後も軍事参議官、東京衛戍総督を約8年務めただけで軍政の要職に就くこともなかった。大正三年には元帥府に列せられている。

片目で充分

 前原一誠が起こした萩の乱鎮圧するため出征した際、川村は片目を患っていた。心配する友人に対し、川村は「一誠を伐つには片目で充分だ」と笑って答えたという。また、西南戦争では城山攻撃隊の指揮官に抜擢され、生還し難いことを覚悟した川村は身辺整理をしたうえで城山へ突入している。


子供は可愛い

 幕僚を従えて戦線を巡視した帰路、川村らが昼食をとっていると中国人の子供が二人近寄ってきた。その時の川村の様子が「日露戦争実記」の記事に次のように記されている。
『大将倩々(つらづら)両童の状貌を熟視しつつ「何処へ往っても子供は可愛いものぢゃ」と独語して、その側に在りし硝子の瓶をとりて、美髯を捻りながら、你進上進上と少(わか)き方の童子に与えたるに、彼がこれを得て狂喜措く所を知らず、年長けたるに向かって鬼の首にても獲たらん如く、これを誇りたるに、誇られたる児童はこれを視ていと羨ましげに指をくわえて眺め居たるには、大将これを傍観するに忍びず、他の一個の瓶をとりてまたも年長けたるに与えたるにぞ、二人の喜びは一層その度を増し、大々的大人恵々々と叫びながら、飛ぶが如くに己が家に向かて走り去りたりと。』


常に兵士を気遣う

 清河城攻略の際、予備軍が不足したため後方の歩兵二個中隊が昼夜兼行で前線に急行した。大隊長の志岐守治が伝令を連れて夜中三時頃に司令部に行くと、川村が真先に目をさまし、「兵が着いたら雑炊をやれ。雑炊の用意が出来ているはずだ」と命じた。また川村は「外套はどうした、毛布はどうした」と志岐に尋ね、毛布を途中で置いてきたことを知ると、参謀を起こし「毛布を置いてきたそうだからすぐに取ってこい」と指示するなど、常に兵卒に対して細かい注意を払っていたという。