出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1853年〜1920年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第三艦隊司令長官 |
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薩閥一の人格者「薩の海軍」と称されていた当時、薩摩出身の提督は閥外者から敵視されることもあったが、徳望の篤い片岡だけはその例外であったという。著書「薩の海軍、長の陸軍」で藩閥の軍人らを酷評していた鵜崎鷺城も、片岡については「天質温厚にして人格の人としては恐らく薩の将官中第一に居るべし」と好意的に評価している。上村なら耐えれない八島、初瀬が沈没した直後、一時的に片岡が日進、春日の二艦を率いて第一戦隊に編入されたことがあった。これは独立して活動のできる第三艦隊司令長官という立場でありながら、他の戦隊司令官と同列で東郷直属の指揮下に入るというものである。参謀の百武三郎は後に「もしこれが上村長官のようなご性質の人であったなら果たして耐え得られたであろうか、と私は思うのです。(中略) この間において長官の態度を見ておりますと、実に鹿児島人に似合わないような優しい謙譲な、そして勤勉な平常の長官が矢張りこの場合においても我々幕僚として付いて居ってお気の毒と思うほどの状況の下にあっても少しも変る所がない、そしてすることだけは勉励されたのです」と回想している。部下の進言をよく聴く片岡は単なる仁将ではなく、海戦においても明敏適切な戦術眼で事態を処理していた。無暗に下知を出すことも無く、部下の進言もよく用いていた。幕僚が片岡の性格に反したような無理な進言をすることもあったが、それでも理があればその案を採用していたという。 |
出身地 |
陸軍士官学校 |
− |
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生没年 |
1847年〜1913年 |
陸軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
内閣総理大臣 |
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出生届の遅れで罰金戸籍法発布以来、出生や死亡の届け出を怠って科料に処せられる者が続出していた。桂も明治32年に子供が生まれた際、10日過ぎてから出生届を出したため裁判所から科料五円を命じられた。桂家の執事がこれに驚き、「他の連中は五十銭から一円程度なのに五円は高い、負けてもらえないか」と役所で申し出たところ、側にいた人々が思わず吹き出し、その噂が東京中に広まって新聞にまで載ってしまった。自業自得で援軍要請日清戦争で第三師団長として出征した桂は、敵襲に備えるため終夜極寒の中に兵卒を立たせ、多数の凍傷者を出してしまった。そのため、自軍の形勢が不利であるという理由で軍司令部に増援要請を出し続けたのだが、当時は増兵無しでも十分敵を追撃できる戦況であったため、桂の指揮能力に対する評判は悪くなってしまった。先に記者に謝る日露戦争の講和会議で賠償金を取れるとは思っていなかった桂だが、首相という立場上、虚勢を張っていた。しかし、その虚言に怒った一人の新聞記者から講和に反対され、桂も困ってしまった。数年後、桂のもとを訪れたその新聞記者が「先年は・・・」と謝ろうとしたところ、それを察した桂が先に「あの時は僕が悪かった。君を騙してすまなかった」と頭を下げた。 |
1860年〜1926年。尾張藩出身。東京大学法学部を首席で卒業後、三菱に入社して岩崎弥太郎の娘と結婚。明治20年に陸奥宗光の勧めで外務省に入り、外相秘書、駐英公使などを歴任し、伊藤、西園寺、桂内閣では外相を務めた。大正3年には大隈内閣の外相に就任し、第一次世界大戦への参戦、対華二十一ヶ条要求などを推進した。大正13年に首相となり、在職中に普通選挙法、治安維持法を制定した他、日ソ基本条約の締結、宇垣軍縮などを実現させている。
出身地 |
出身校 |
司法省法学校 |
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生没年 |
1859年〜1923年 |
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金利は取れないある日、金に困った加藤が収集していた硯を売るという噂が流れた。それを聞いた資産家の友人が大金で買い取ろうとしたところ、加藤はこの申し出を拒否。そして数日後、加藤はその硯を別の友人に原価で売ってしまった。後に資産家の友人がこれを聞き、「何で僕に売ろうとしなかったんだ?」と尋ねると、加藤は 「君が高値で買おうとしたから嫌になった」と答えた。その友人が 「でも、君が買ったときより物価も上がったし、金利のこともあるから当然だよ」と言うと、「馬鹿なこと言うな。友人から金利なんて取れないよ」と、加藤は平然と答えたという。地元代表ではない愛媛県選出の議員になった時のこと、東京へ向かう加藤を見送りに来た地元の有力者たちに対し、「私は特に地元のために働くというようなことはしないからね」と語った。尻から飲んだ食道癌を患った加藤は、最後の三十数日間は飲食が出来ない状態であった。そんな中、西園寺公望から見舞として葡萄酒が送られてくると、「お見舞いの葡萄酒有りがとう。尻から飲んで酔いました」と謝電を発したという。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1861年〜1923年 |
海軍大学校 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第二艦隊参謀長 |
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詳細情報加藤のエピソードは個別ページ「加藤友三郎」に掲載。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1870年〜1939年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
三笠砲術長 |
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同じ首席でも太平洋戦争後、水交社では海軍軍人による反省会が行われた。その席上、野元為輝少将(元瑞鶴艦長)は兵学校教育を論じていく中で、記憶力を主として成績上位を占めた軍人がその後は勉強もせずに出世していったことを問題視している。野元は秋山真之と加藤寛治の実名を挙げ、同じ首席でも創造性のある真之と、猛勉強による記憶式の加藤とでは違うと述べている。そして、「秋山さんがもし無事にしておられたら海軍の空気は非常に違ったろう」とも述べている。(参考文献:『[証言録]海軍反省会』(PHP研究所 / 戸高一成 編)。第八回、第十回の二回にわたり同様の主張をしている) |
1853年〜1942年。福岡藩出身。明治4年に岩倉使節団に同行しアメリカへ留学。ハーバード大では小村寿太郎と共に法律を学んだ。帰国後は東京大学予備門英語教員などを経て元老院へ出仕し、総理秘書官、大書記官などを務め、大日本帝国憲法や皇室典範の起草に従事した。その後は農商務相、法相、枢密院顧問などを歴任。明治37年に日露戦争が勃発すると伊藤博文の要請で渡米し、ハーバード大の同窓生であったルーズベルト大統領に日本支援を要請した。日露戦争後は枢密顧問官、維新史料編纂会総裁、二松学舎専門学校舎長などを歴任。また、三木武夫(後の首相)らと日米同志会を結成したが、日米開戦の翌年に死去。
出身地 |
海軍兵学校 |
− |
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生没年 |
1837年〜1922年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日清戦争時 |
軍令部長 |
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熊本籠城戦西南戦争中の熊本城籠城戦において樺山は二度負傷したが、病床に伏せることなく戦線で指揮を執り続けた。また、軍議中の櫓に薩摩軍の砲弾が命中しても泰然自若としていたという。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1849年〜1916年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第二艦隊司令長官 |
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詳細情報上村のエピソードは個別ページ「上村彦之丞」に掲載。 |
好古とは同年齢であったが、家が離れていたため接点は無かった。師範学校に入ってからは唯一の同郷者ということで交友がはじまり、卒業まで同居していた。二人とも実家が貧乏士族であり、裏が破れた好古の羽織と表が破れた鴨川の羽織とを張り合わせて一枚の羽織を作り、外出時には交代で着ていったと言われている。帰郷後は教育事業に携わり、松山市収入役も務めている。
出身地 |
陸軍兵学校 |
− |
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生没年 |
1847年〜1899年 |
陸軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日清戦争時 |
参謀次長 |
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鶴嶺城頭月光青西南戦争で故郷薩摩に進軍した川上は、陥落した城山を見て断腸の思いで次の一詩を詠んだ。回顧当時茫似夢 回顧すれば当時茫(ぼう)として夢に似たり 四邊残壘血猶腥 四辺残の塁、血なお腥(なまぐさ)し 忠魂何處呼無答 忠魂いずくにぞ呼べども答え無く 鶴嶺城頭月光青 鶴嶺城頭(かくれいじょうとう)月光青し このオヤジ兵を解せず山県有朋は日清開戦に慎重であり、参謀本部の会議でも主戦派の川上と激論を交わしていた。川上は遂に「このオヤジ、兵を解せず」とまで放言したが、山県が怒って退席すると後を追って謝罪し、「国の大事を議する時に、閣下に去られては成るところがない」と懇願して再び会議の席に戻したという。借金で知人に融資知人が日清貿易研究所を設立して金に困っていた時、川上は自宅を担保に四千円を用立てた。これを聞いた頭山満は「今の軍人どもには薬にしたくても出来ないことだ。武人が銭に執着するようになったらおしまいだ」と評している。 |
出身地 |
出身校 |
第二高等学校 |
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生没年 |
1873年〜1937年 |
所属 |
新傾向俳句 |
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詳細情報碧梧桐のエピソードは個別ページ「河東碧梧桐」に掲載予定(作成準備中)。 |
出身地 |
陸軍士官学校 |
− |
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生没年 |
1850年〜1926年 |
陸軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第十師団長 |
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片目で充分前原一誠が起こした萩の乱鎮圧するため出征した際、川村は片目を患っていた。心配する友人に対し、川村は「一誠を伐つには片目で充分だ」と笑って答えたという。また、西南戦争では城山攻撃隊の指揮官に抜擢され、生還し難いことを覚悟した川村は身辺整理をしたうえで城山へ突入している。子供は可愛い幕僚を従えて戦線を巡視した帰路、川村らが昼食をとっていると中国人の子供が二人近寄ってきた。その時の川村の様子が「日露戦争実記」の記事に次のように記されている。『大将倩々(つらづら)両童の状貌を熟視しつつ「何処へ往っても子供は可愛いものぢゃ」と独語して、その側に在りし硝子の瓶をとりて、美髯を捻りながら、你進上進上と少(わか)き方の童子に与えたるに、彼がこれを得て狂喜措く所を知らず、年長けたるに向かって鬼の首にても獲たらん如く、これを誇りたるに、誇られたる児童はこれを視ていと羨ましげに指をくわえて眺め居たるには、大将これを傍観するに忍びず、他の一個の瓶をとりてまたも年長けたるに与えたるにぞ、二人の喜びは一層その度を増し、大々的大人恵々々と叫びながら、飛ぶが如くに己が家に向かて走り去りたりと。』 常に兵士を気遣う清河城攻略の際、予備軍が不足したため後方の歩兵二個中隊が昼夜兼行で前線に急行した。大隊長の志岐守治が伝令を連れて夜中三時頃に司令部に行くと、川村が真先に目をさまし、「兵が着いたら雑炊をやれ。雑炊の用意が出来ているはずだ」と命じた。また川村は「外套はどうした、毛布はどうした」と志岐に尋ね、毛布を途中で置いてきたことを知ると、参謀を起こし「毛布を置いてきたそうだからすぐに取ってこい」と指示するなど、常に兵卒に対して細かい注意を払っていたという。 |