出身地 |
陸軍士官学校 |
兵学寮 |
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生没年 |
1852年〜1906年 |
陸軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
満州軍参謀長 |
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詳細情報児玉のエピソードや写真は個別ページ「児玉源太郎」に掲載。 |
出身地 |
出身校 |
大学南校 |
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生没年 |
1855年〜1911年 |
日露戦争時 |
外務大臣 |
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命懸けの講和交渉ロシアとの講和談判のときは、一家全滅を覚悟して渡米した。国内の非難が高まったのを聞いた小村は、家族も無事ではないだろうと思い、知り合いから「留守宅は安全ですよ」と言われても信じなかった。講和会議後、船が横浜に着いたときに真っ先に訪ねてきたのが小村の息子であった。そのときになって初めて、小村は「お前はまだ生きていたのか」と言って喜んだ。体は小さくても・・・西郷従道から「その小さな体で外国人の中に混じったら、子供のように思われるでしょう」と言われると、小村は「大丈夫です。私は日本を代表して行くのですから。日本は小さくても強いですからね」。日英同盟締結の功績日英同盟実現の功により、当時の閣僚は全員爵位を与えられた。ある人が小村に対し、「外相である閣下の栄誉は当然だが、他の閣僚にその資格があるとは思えない」と言うと、小村は笑って「同盟交渉の機密を厳守しただけでも、彼らにも授爵の価値はある」と答えた。小村の手紙小村は筆無精だったため、直筆の手紙はほとんど残っていなかった。その小村の手紙をたくさん持っているという人が居たのだが、その手紙というのは全て借金の申入書だった。 |
1850年〜1922年。松山藩出身。藩の儒学者 近藤名州の三男。明教館で漢学を学び、さらに江戸で遊学。帰郷後に明教館の助教授となるが、明治7年に明教館が廃止されたため、翌年に師範学校受験のため好古と共に大阪へ渡る。後に漢学者となり、「猶興書院」を開いて大坂の子弟の教育に従事した。
近藤名州の次男で元粋の兄。正岡子規が入学した当時の愛媛県立松山中学校長。養子の元久はアメリカの飛行学校に留学し、日本人として初めて飛行免状を取得している。