勝海舟の海軍操練所を経て、坂本龍馬の海援隊参加。維新後は兵庫県知事、地租改正局長、元老院議官などを務めた が、西南戦争の際に土佐立志社メンバーと共に大久保利通、伊藤博文らの暗殺を計画したことが発覚し投獄される。明
治16年に出獄し、伊藤博文の勧めでヨーロッパへ留学。ドイツの法学者シュタインから国家学を学んだ。帰国後は外 務省に出仕し、駐米公使、第一次山県内閣の農商務大臣、第二次伊藤内閣の外務大臣を務める。外相在職中は日英通商
航海条約を締結するなど治外法権の撤廃を実現させた。
明治27年には川上操六参謀次長と共に日清開戦を主導。下関講和会議では全権を務め、日本に有利な条件で戦争を 終結させた。しかし、その後の三国干渉では遼東半島の返還を決断している。この頃より結核を患っていた陸奥は明治
29年に外相を辞任し、翌30年に死去した。
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