海軍幼年学校、砲術学校を卒業後、先任将校としてバルチック艦隊に配属される。露土戦争に従軍後、ブルガリア海軍司令官、巡洋艦や砲艦の上級将校、ロンドン大使館付武官を務め、1894年にはモノマフ艦長としてマカロフの指揮下に入る。少将進級後に軍令部長と侍従武官を兼任した。日露戦争ではニコライ2世からバルチック艦隊の司令長官に任命され、1904年10月にリバウ軍港を出航。約7か月に及ぶ航海を経て日本海海戦で連合艦隊と戦うが、重傷を負い捕虜となる。帰国後の1906年には軍法会議にかけられたが、重傷の理由で無罪となり退役。その3年後に病没した。
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