「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【し】

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渋沢栄一【しぶさわえいいち】

 1840年〜1931年。明治〜大正期の実業家。武蔵国の大農家の長男として生まれ、後に一橋慶喜に仕える。1867年に徳川昭武の随員としてパリの万国博覧会を見学。維新後は大蔵省、民部省へ出仕するが、大久保利通らと対立して退官。以後は実業界に身を置き、第一国立銀行、地方銀行、東京ガス、帝国ホテル、秩父鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールの設立に携わるなど企業の創設・育成に力を入れた。



島村速雄【しまむらはやお】


出身地

土佐藩

海軍兵学校

7期

生没年

1858〜1923年

海軍大学校

最終階級

元帥海軍大将

日露戦争時

連合艦隊参謀長
第二艦隊司令官


 土佐藩郷士の次男として生まれる。先祖は土佐の戦国大名 長宗我部家の家臣で、戸次川の戦いで戦死している。海軍兵学校を首席で卒業した後は海軍部内でも数少ない戦術家として知られ、単縦陣戦法を創案。日清戦争では常備艦隊参謀に抜擢され、司令長官の伊東祐亨を補佐した。また、明治33年の義和団の乱では大沽に派遣された艦隊の司令官として現地で指揮を執った。
 明治36年、対露戦に備えて連合艦隊が編成されると連合艦隊参謀長に就任。開戦後は秋山真之と共に黄海海戦までの作戦立案を行った。黄海海戦後の水雷艇司令更迭に伴い、自らも参謀長の職を加藤友三郎に譲り第二艦隊司令官に降格。しかし、日本海海戦で対馬航路説を推すなど、その発言力は大きかった。休戦議定書締結後には海軍休戦地域画定委員となり、真之と共にロシア委員との交渉に当たった。
 戦後は海軍兵学校校長、海大校長、軍令部長、軍事参議官などを歴任し、亡くなった日に元帥となった。

詳細情報

 島村のエピソードや写真は個別ページ「島村速雄」に掲載。


下瀬雅允【しもせまさちか】

 1859年〜1911年。工学博士、帝国学士院会員。広島藩の鉄砲役の子として生まれ、広島英語学校を経て明治17年に工部大学化学科(東大工学部の前身)を卒業。一時印刷局に務めるが、海軍技師に転じ火薬研究に専念する。実験中の爆発事故で左手首の大半を失い、胸にも重傷を負ってしまったが、その後も研究を続け明治26年に下瀬火薬を完成させた。この下瀬火薬の威力は日本海海戦などの戦勝に大きく貢献している。



白川義則【しらかわよしのり】


出身地

松山藩

陸軍士官学校

1期

生没年

1868〜1932年

陸軍大学校

12期

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

歩兵第21連隊大隊長
第13師団参謀


 松山藩出身。幼名精一郎。松山中学を中退した後、給仕として県庁に勤務したが、下級役人に酷使されたことに憤慨し三日で退職。翌年には小学校の代用教員となったが、父の死で家計が困窮したことを機に陸軍教導団の試験を受ける。この時、身長が足りなくて不合格になるところを辛うじて合格させてもらったと言われている。その後、陸軍士官学校に進み第一期卒業。明治26年には陸大に入学するが、日清戦争により中退して中尉として出征した。戦後、復校し第十二期生として卒業する。日露戦争では連隊大隊長として出征し、首山堡攻略戦などに参戦。後に第13師団参謀として樺太攻略にも従軍した。戦後は第11師団長、陸軍省人事局長、陸軍大臣、関東軍司令官、航空部本部長などを歴任。上海派遣軍司令官として上海事件の収拾に当たった昭和7年、爆弾テロに遭い死去。

詳細情報

 白川のエピソードや写真は個別ページ「白川義則」に掲載。