1836年〜1895年。当初は太平天国軍に属していたが、投降後に李鴻章の軍閥に入る。後に北洋艦隊が組織されるとその提督抜擢され、1891年には定遠・鎮遠などを率いて日本に来航している。1894年の日清戦争では、黄海海戦で連合艦隊に敗北し負傷。その後は艦隊を威海衛に温存して陸上部隊と連携して防備を固めたが、山東半島に上陸した日本陸軍に陸上砲台を攻略されたため降伏を決意。伊東祐亨に降伏を伝える使者を送った後、鎮遠艦内で服毒自決を遂げた。
出身地 |
出身校 |
陸軍戸山学校 |
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生没年 |
1852年〜1919年 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
陸軍大臣 |
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戦場の牛皮も気になる日露戦争中、寺内が「満州軍は食用として多くの牛を殺しているが、その皮は不要であろう。内地はその皮がなくて困っているから、送ってほしい」と言うと、それを聞いた児玉は「我々は戦争をしているのだ。そんなことまでできない」と断った。すると寺内は「軍事経営が困難なときなのに、児玉はただ勝てばよいと思っている。いかに安価に勝利を収めるかという考えが児玉にはないのか」と言い、児玉が帰国したときも大議論となった。このとき、仲裁に入った伊藤は、「たかが牛のことで喧嘩をしないでくれ」と二人を諭したという。ビリケン寺内は頭の形がビリケン人形に似ているうえに、組織した内閣が「非立憲(ひりっけん)」であったことをかけて「ビリケン内閣」と呼ばれたというエピソードは有名であるが、「ビリケン」というあだ名は組閣前から陸軍内でも存在していたようだ。大正元年十月二十八日の松川敏胤の日記には「木越の大将に落第したるは気の毒とは言ふ條、矢張りビリケンの差金ならむ」と書かれている。(長南政義氏が翻刻した資料「國學院法政論叢 第三十輯 資料紹介 陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌」より引用)児玉の推薦文児玉が寺内を後任の陸相として推薦した際、「寺内という男は余の如く盲印を捺すのと異なり、書類の第一頁より終わりまで目を通した後にあらざれば決して判を押さず、故に彼を余の後任とすれば大丈夫なり」と裏書きしている。 |