「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【や】

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八代六郎【やしろろくろう】


八代六郎

出身地

犬山藩

海軍兵学校

8期

生没年

1860年〜1930年

海軍大学校

選科学生

最終階級

海軍大将

日露戦争時

浅間艦長


 犬山藩の地主 松山庄七の三男。後に水戸浪士 八代逸平の養子となる。地元の英語学校を経て海軍兵学校へ入学。受験時には「入学できなければ侠客になる」と言ったという。明治14年に兵学校を卒業(8期卒)。その後、練習所の分隊士や軍令部出仕を経て明治27年の日清戦争では吉野の分隊長として出征した。明治28年から公使館附武官として3年間ロシアに駐在し、現地で情報収集にあたっている。日露戦争では浅間艦長として仁川沖海戦から日本海海戦で活躍。海戦前に尺八を吹いていたことから「風流艦長」としても有名になった。
 戦後は艦隊司令官、海大校長などを歴任。大正3年、シーメンス事件が発覚すると海軍大臣に指名され、鈴木貫太郎、秋山真之とともに事態の収拾にあたった。辞職後は再び現場勤務に戻り、第2艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官を務め、大将へ昇進した。

詳細情報

 八代のエピソードは個別ページ「八代六郎」に掲載。




柳原極堂【やなぎはらぎょくどう】

 1867年〜1957年。松山藩出身。本名は正之。松山中学に入学するが、後に同級生の正岡子規と共に中退。上京して共立学校に入学した。共立学校卒業後は松山に帰り、海南新聞社の記者となる。明治28年、日清戦争から帰国し松山で療養していた子規から俳句の指導を受け、明治30年には月刊俳誌「ほとゝぎす」を創刊した。その後、は松山市議会議員や伊予日々新聞社長などを務め、晩年は「友人子規」を記すなど子規顕彰に尽力した。昭和32年に松山市初の名誉市民となり、その直後に90歳で病没している。




山県有朋【やまがたありとも】


山県有朋

出身地

長州藩

出身校

松下村塾

生没年

1838年〜1922年

最終階級

元帥陸軍大将

日露戦争時

参謀総長


 足軽以下の身分である中間の家に生まれる。狂介と名乗っていた若い頃は槍の名手として知られ、松下村塾にも数か月在籍していた。1863年に高杉晋作が奇兵隊を創設すると、これに参加し頭角を現す。戊辰戦争では総管として奇兵隊を率い、北陸、東北を転戦した。
 維新後は陸軍卿に就任し、徴兵制や軍人勅諭の制定に関わった。その後も陸軍大臣、参謀総長などを歴任し陸軍内で長州閥を形成していく。日清戦争では第一軍司令官として出征するが、独断専行のため更迭される。日露戦争では参謀総長として内地で戦況を見守った。
 政界では総理大臣、内務大臣、司法大臣、枢密院議長などを歴任。首相在任中は治安警察法を制定して自由民権運動を弾圧するなど、政党政治と敵対していた。その後も元老として影響力を与え続けたが、宮中某重大事件で権威が失墜し、失意のうちに病没した。

戦場の食事は平等に

 第一軍司令官として日清戦争に従軍した際、司令部の糧食係が洋食をだそうとした。しかし、司令部に洋食洋食器が20セットしかないことを知った山県は、「これでは全軍の将校にいきわたらない。司令部だけが特別な食事をすべきではない」と言って係を叱った。また、天長節の時に赤飯が炊かれたが、そのとき山県は「少しずつでもいいから、全ての兵卒に分け与えよ」と命じた。そのため、白米に数粒の赤飯が混じっている程度ではあったが、全軍の兵士に配られた。


立見に頭があがらない

 戊辰戦争中、山県は立見尚文率いるる桑名藩兵の奇襲攻撃を受けて敗走したことがあった。逃げる際に狼狽して落とした刀を敵軍に奪われたうえ、後年になって立見から「それでも酒を入れていた瓢箪だけは手元に残ったからよいではないか」と言われるなど、終生立見には頭が上がらなかった。なお、立見は「政治家としての山県は伊藤の向うを張るも、軍人として半分の価値なし」とまで酷評していたといわれている。


何事もよく記憶している

 日露戦争中は毎日のように副官から報告を受けていたが、時々「○月○日の状況はこうであったが、それがこうなったのは腑に落ちない」などと、報告した本人が忘れているようなことまでよく覚えていた。群役所に勤めていた若い頃に算盤を習っていたこともあり、細かい数字まで記憶していたという。



山路一善【やまじかずよし】


山路一善

出身地

松山藩

海軍兵学校

17期

生没年

1869年〜1963年

海軍大学校

最終階級

海軍中将

日露戦争時

第三戦隊参謀


 兄は佃一予、妻は山本権兵衛の次女。海軍兵学校では秋山真之と同期であり、卒業時の席次は3位。卒業後は龍驤分隊士、千代田航海士、橋立水雷長、東宮武官、常備艦隊参謀などを務め、第一艦隊第三戦隊参謀として日露戦争に従軍した。戦後は軍令部参謀、笠置艦長、砲術校長などを歴任。明治45年には航空術研究委員長として海軍航空兵力の創立に尽力している。また、第一次世界大戦が勃発すると第三特務艦隊司令官として南太平洋方面での海上護衛に従事した。大正11年に軍縮に伴う人員整理で待命となり、翌年中将で退役。

喧しい艦長

 戸塚道太郎中将(日米開戦時の第十一連合航空隊司令官)は「小柳資料」の中で、「笠置艦長の山路大佐はなかなかの喧しい人で(中略)「禿善」と仇名されウルサがられていたそうだ。」と回顧している。


陣形に批判的

 開戦前の明治三十六年、山屋他人の円戦術、秋山真之のイ字陣形、乙字陣形など陣形研究が流行りだしたのに対し、山路は「艦隊の隊形は時々刻々に変化するもの」であるから「隊形にばかり拘泥すべきものではない」という持論であった。山路は著書「禅の応用」で黄海海戦について、「当日の緒戦に於いて、聊か秋山氏従来の主張による陣形最上主義に捉はれたるにあらざるか」などと、隊形に拘って転回を繰り返したことが苦戦の原因だったと述べている。


山下亀三郎【やましたかめさぶろう】

  1867年〜1944年。宇和島藩出身。実業家で山下汽船の創業者。明治法律学校(現在の明治大学)を中退後、製紙会社、商店で働き、明治27年に横浜で山下商店を創業。その後、海運業で成功し「三大船成金」の一人とされた。
 「坂の上の雲」では実名では登場しないが、最終章「雨の坂」で真之が亡くなった「小田原の知人の別荘」というのが山下の別荘であり、山下自身も真之の最期を看取っている。

好古からの忠告

 山下が真之の兄 好古と初めて会ったのは九州に向かう車中であったという。山下が名刺を差し出したところ、好古からまず言われたのが「君が山下か。弟とあまり酒など呑んで歩いてはいかんよ」とのことであった。



山下源太郎【やましたげんたろう】


出身地

米沢藩

海軍兵学校

10期

生没年

1863年〜1931年

海軍大学校

最終階級

海軍大将

日露戦争時

軍令部参謀


 米沢中学校を経て海軍兵学校へ入学。各艦で分隊士、航海長などを務め、日清戦争では金剛砲術長として出征。続く台湾征討では陸戦隊副官を務め、中隊を指揮して敵兵五千を捕虜にする功を挙げた。また、北清事変でも海軍陸戦隊の指揮官に任じられ天津攻略戦に従事している。日露戦争中は軍令部参謀として大本営勤務。バルチック艦隊の対馬沖来航を予測し、連合艦隊を鎮海湾に待機させる電文を送るよう山本権兵衛らに具申した。戦後は磐手艦長、第一艦隊参謀長、海軍兵学校長、軍令部次長、軍令部長、連合艦隊司令長官など要職を歴任した。



山地元治【やまぢもとはる】


山地元治

出身地

土佐藩

陸軍士官学校

生没年

1831年〜1897年

陸軍大学校

最終階級

陸軍中将

日清戦争時

第一師団長


 土佐藩馬廻役の家に生まれ、藩主小姓となる。戊辰戦争では部隊長として鳥羽伏見の戦いに従軍し、その後も東北地方を転戦した。西南戦争では別働第四旅団参謀として出征し、人吉城攻略戦で負傷。その後は連隊長、熊本鎮台司令官、大阪鎮台司令官、歩兵第二旅団長、第六師団長などを歴任し中将に昇進。明治27年に日清戦争が勃発すると第一師団長として出征し、金州城や旅順攻撃の指揮を執った。戦後に子爵となり西部都督を務めるが、在職中に病没。
  「竜馬がゆく」三巻では、長州の周布政之助を切りに行こうとするシーンで登場している。


独眼竜秘話

  「独眼竜」と称された山地の隻眼は、幼少期に誤って藪で片目を傷つけたのが原因である。怪我をした際には落ちた眼球を手に載せて泣きながら帰宅したが、母から「武士の子が目の傷くらいで泣くことがありますか。そんな汚らわしいものは捨てなさい」と叱られたため、眼球を捨て泣くのを堪えたという。(「竜馬がゆく」にも同様のエピソードあり)


山内容堂を諌める

 山内容堂が近臣の諫めも聞かずに出かけようとした際、山地は容堂が乗っている馬の轡を掴んで行く手を阻み諫言した。怒った容堂は鞭で山地の顔を打ったが、流血に構わず諫言を続ける山地に根負けし、遂に外出を諦めた。



山本五十六【やまもといそろく】


山本五十六

出身地

新潟県

海軍兵学校

32期

生没年

1884年〜1943年

海軍大学校

甲種14期

最終階級

元帥海軍大将

日露戦争時

 少尉候補生
 (日進乗組)


 明治37年に海軍兵学校を卒業し、少尉候補生として日進に乗艦。日本海海戦ではロシア艦隊の砲撃で負傷し、左手の指二本を失っている。戦後は駐米武官、赤城艦長、海軍航空本部技術部長、ロンドン軍縮会議予備交渉代表、海軍航空本部長などを歴任。昭和11年には海軍次官に就任し、日独伊三国軍事同盟には最後まで反対し続けた。昭和14年に連合艦隊司令長宮に就任。航空戦力が中心となることを予期し、昭和16年の日米開戦では真珠湾攻撃を立案・実行した。昭和18年、前線視察中に上空で待ち伏せしていた米戦闘機に搭乗機を撃墜され戦死。元帥府に列せられた。



山本英輔【やまもとえいすけ】


出身地

鹿児島県

海軍兵学校

24期

生没年

1876年〜1962年

海軍大学校

甲種5期

最終階級

海軍大将

日露戦争時

第二艦隊参謀


 山本権兵衛の甥。父吉蔵は西南戦争で戦死している。攻玉社から海軍兵学校に入り、卒業後は各艦で分隊長、水雷長を務めた。明治36年に第二艦隊参謀となり、翌年の日露戦争に従軍。日本海海戦では沈没するスワロフを撮影している。戦後に海軍大学校を卒業し、ドイツ駐在武官、連合艦隊参謀、三笠艦長、海軍大学校校長、横須賀鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官、軍事参議官など要職を歴任。海軍航空戦力に早くから注目しており、海軍航空本部の初代本部長も務めた。陸軍皇道派と親しかったため、二・二六事件後に予備役編入となった。



山本権兵衛【やまもとごんべえ】


山本権兵衛

出身地

鹿児島県

海軍兵学校

2期

生没年

1852年〜1962年

海軍大学校

最終階級

海軍大将

日露戦争時

海軍大臣


 薩英戦争で初陣し、戊辰戦争では鳥羽伏見、北越、庄内、函館などを転戦。維新後は海軍兵学寮に入り、卒業後ドイツ軍艦での遠洋航海を経験する。帰国後は各艦での海上勤務を経て浅間副長、天城艦長、高千穂艦長などを歴任。明治24年に海軍大臣官房主事となり、これ以降は海軍省主事、軍務局長など軍政方面に携わるようになっていく。日清戦争後は西郷従道海相の信任を背景に海軍増強や人事刷新を断行していった。明治31年に海軍大臣に就任し、六・六艦隊整備、軍令部の独立などを実現。日露戦争では東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した。
 日露戦争終結を見届けて海軍大臣を辞任するが、海軍の長老として部内に大きな影響力を持ち続けた。大正2年に内閣総理大臣に就任して政界へ復帰すると、軍部大臣現役武官制の廃止、文官任用令の改定などを実施。しかし、シーメンス事件の責任を取る形で僅か1年で辞職となり、予備役へ編入される。大正12年、加藤友三郎の急死に伴い関東大震災直後に再び首相に就任。復興事業に取り組んだが、虎ノ門事件で翌年には総辞職となった。その後は表舞台に出ることなく、昭和8年に病没した。

詳細情報

 権兵衛のエピソードについては個別ページ「山本権兵衛」に掲載。



山屋他人【やまやたにん】


出身地

盛岡藩

海軍兵学校

12期

生没年

1866年〜1940年

海軍大学校

将校科2期

最終階級

海軍大将

日露戦争時

 秋津洲艦長
 笠置艦長


 攻玉社を経て海軍兵学校へ入学。卒業後は厳島分隊長、大和航海長などを務め、明治27年の日清戦争では西京丸航海長として黄海海戦に参戦した。明治29年に海軍大学校に入学し、卒業後は砲術練習所教官、、海軍大学校教官、常備艦隊参謀などを務める。海大教官在職中に考案した円戦術は丁字戦法の原型とも言われている。日露戦争では秋津洲艦長として出征し、後に笠置艦長に転じる。戦後は教育本部第一部長、海大校長、海軍省人事局長、軍令部次長、連合艦隊司令長官など要職を歴任した。皇太子妃雅子様の曾祖父にあたる。