出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1860年〜1930年 |
海軍大学校 |
選科学生 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
浅間艦長 |
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詳細情報八代のエピソードは個別ページ「八代六郎」に掲載。 |
1867年〜1957年。松山藩出身。本名は正之。松山中学に入学するが、後に同級生の正岡子規と共に中退。上京して共立学校に入学した。共立学校卒業後は松山に帰り、海南新聞社の記者となる。明治28年、日清戦争から帰国し松山で療養していた子規から俳句の指導を受け、明治30年には月刊俳誌「ほとゝぎす」を創刊した。その後、は松山市議会議員や伊予日々新聞社長などを務め、晩年は「友人子規」を記すなど子規顕彰に尽力した。昭和32年に松山市初の名誉市民となり、その直後に90歳で病没している。
出身地 |
出身校 |
松下村塾 |
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生没年 |
1838年〜1922年 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
参謀総長 |
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戦場の食事は平等に第一軍司令官として日清戦争に従軍した際、司令部の糧食係が洋食をだそうとした。しかし、司令部に洋食洋食器が20セットしかないことを知った山県は、「これでは全軍の将校にいきわたらない。司令部だけが特別な食事をすべきではない」と言って係を叱った。また、天長節の時に赤飯が炊かれたが、そのとき山県は「少しずつでもいいから、全ての兵卒に分け与えよ」と命じた。そのため、白米に数粒の赤飯が混じっている程度ではあったが、全軍の兵士に配られた。立見に頭があがらない戊辰戦争中、山県は立見尚文率いるる桑名藩兵の奇襲攻撃を受けて敗走したことがあった。逃げる際に狼狽して落とした刀を敵軍に奪われたうえ、後年になって立見から「それでも酒を入れていた瓢箪だけは手元に残ったからよいではないか」と言われるなど、終生立見には頭が上がらなかった。なお、立見は「政治家としての山県は伊藤の向うを張るも、軍人として半分の価値なし」とまで酷評していたといわれている。何事もよく記憶している日露戦争中は毎日のように副官から報告を受けていたが、時々「○月○日の状況はこうであったが、それがこうなったのは腑に落ちない」などと、報告した本人が忘れているようなことまでよく覚えていた。群役所に勤めていた若い頃に算盤を習っていたこともあり、細かい数字まで記憶していたという。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1869年〜1963年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第三戦隊参謀 |
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喧しい艦長戸塚道太郎中将(日米開戦時の第十一連合航空隊司令官)は「小柳資料」の中で、「笠置艦長の山路大佐はなかなかの喧しい人で(中略)「禿善」と仇名されウルサがられていたそうだ。」と回顧している。陣形に批判的開戦前の明治三十六年、山屋他人の円戦術、秋山真之のイ字陣形、乙字陣形など陣形研究が流行りだしたのに対し、山路は「艦隊の隊形は時々刻々に変化するもの」であるから「隊形にばかり拘泥すべきものではない」という持論であった。山路は著書「禅の応用」で黄海海戦について、「当日の緒戦に於いて、聊か秋山氏従来の主張による陣形最上主義に捉はれたるにあらざるか」などと、隊形に拘って転回を繰り返したことが苦戦の原因だったと述べている。 |
1867年〜1944年。宇和島藩出身。実業家で山下汽船の創業者。明治法律学校(現在の明治大学)を中退後、製紙会社、商店で働き、明治27年に横浜で山下商店を創業。その後、海運業で成功し「三大船成金」の一人とされた。
「坂の上の雲」では実名では登場しないが、最終章「雨の坂」で真之が亡くなった「小田原の知人の別荘」というのが山下の別荘であり、山下自身も真之の最期を看取っている。
好古からの忠告山下が真之の兄 好古と初めて会ったのは九州に向かう車中であったという。山下が名刺を差し出したところ、好古からまず言われたのが「君が山下か。弟とあまり酒など呑んで歩いてはいかんよ」とのことであった。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1863年〜1931年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
軍令部参謀 |
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出身地 |
陸軍士官学校 |
− |
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生没年 |
1831年〜1897年 |
陸軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日清戦争時 |
第一師団長 |
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独眼竜秘話「独眼竜」と称された山地の隻眼は、幼少期に誤って藪で片目を傷つけたのが原因である。怪我をした際には落ちた眼球を手に載せて泣きながら帰宅したが、母から「武士の子が目の傷くらいで泣くことがありますか。そんな汚らわしいものは捨てなさい」と叱られたため、眼球を捨て泣くのを堪えたという。(「竜馬がゆく」にも同様のエピソードあり)山内容堂を諌める山内容堂が近臣の諫めも聞かずに出かけようとした際、山地は容堂が乗っている馬の轡を掴んで行く手を阻み諫言した。怒った容堂は鞭で山地の顔を打ったが、流血に構わず諫言を続ける山地に根負けし、遂に外出を諦めた。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1884年〜1943年 |
海軍大学校 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
少尉候補生 (日進乗組) |
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出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1876年〜1962年 |
海軍大学校 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第二艦隊参謀 |
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出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1852年〜1962年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
海軍大臣 |
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詳細情報権兵衛のエピソードについては個別ページ「山本権兵衛」に掲載。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1866年〜1940年 |
海軍大学校 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
秋津洲艦長 笠置艦長 |
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