航空機に関わった人々

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航空機と航空隊の生みの親

 愛媛県八幡浜出身の二宮忠八は、カラスが滑空する様子をヒントにして模型飛行器「烏型模型飛行器」を完成させ、1891年に丸亀練兵場で10mの飛行実験を成功させた。その後、今度は玉虫が飛ぶ姿をヒントにして「玉虫型模型飛行器」という有人飛行機を設計。飛行機の実用化を陸軍に上申したが、長岡外史らによって却下されてしまう。二宮は独力で資金を集めて製作を続けたが、1903年にライト兄弟が有人動力飛行に成功すると、開発途中の飛行機を破壊して研究を断念してしまった。後に彼の研究は白川義則によって「天才的発明」と再評価されることとなり、上申書を却下した長岡も二宮に謝罪したという。

 日露戦争後、海軍は山本英輔(後に初代航空本部長に就任)を中心に航空戦力の研究に着手した。このとき、陸海軍航空設備費として100万円を献金して日本の航空戦力発展に寄与したのが山下汽船社長の山下亀三郎であった。山下は秋山真之とも親しく、真之は小田原にある山下の別邸に滞在中に亡くなった。

田中国重の予言

 昭和十年、日露戦争三十周年の記念座談会が東京日日新聞主催(二月九日)、朝日新聞主催(二月十二日)の二回行われた。田中国重は両方の座談会に出席し、それぞれの最後のほうで航空戦の重要性を主張している。「将来の戦において飛行機は作戦上最も有利なものであることは言うまでもなく、今後あるいは空中戦を以て戦争が決せられる時代が到来するかもしれません。」「将来の戦争では東京、大阪、京都、名古屋というような日本の大都市が必ず爆弾で襲われる。今日のような航空機に無関心な国民は、将来残酷な懲罰を受けるということは分かりきっている。」。田中は昭和16年3月、真珠湾攻撃や東京空襲を見ることなく亡くなっているが、彼の予言はその死後に的中している。