出身地 |
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生没年 |
1844年〜1923年 |
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陸軍士官学校 |
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陸軍大学校 |
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日清戦争時 |
第六師団長 |
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日露戦争時 |
第一軍司令官 |
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最終階級 |
戊辰戦争では小銃隊を率いて幕府軍と戦い、鳥羽街道や宇都宮での戦闘で卓越した指揮能力を発揮。維新後に近衛歩兵第1大隊長、近衛歩兵第2大隊長、広島鎮台歩兵第12連隊長を務め、西南戦争では衝背軍の先鋒として薩摩軍背後への上陸作戦を遂行した。その後、近衛歩兵第二連隊長、中部監軍参謀、参謀本部管東局長、歩兵第五旅団長などを歴任。明治27年には第六師団長として日清戦争に出征し、威海衛を陥落させた。その後は近衛師団長、西部都督、軍事参議官を務め、明治37年に日露戦争が勃発すると第一軍司令官に抜擢される。緒戦の鴨緑江から奉天まで主要会戦を戦い抜き、その勇名は海外まで知れ渡った。戦後は再び軍事参議官となり明治40年には伯爵に陞叙されるが、明治42年には元帥に列せられることなく後備役編入となる。退役後は枢密顧問官を務めた。
西南戦争中、黒木の隊が薩摩軍の夜襲を受けたことがあった。実戦に不慣れな将校らが狼狽して黒木を起こすと、黒木は泰然自若として顔色も変えず「賊軍が来襲したならば、ただ一撃のもとにこれを破るだけ。他に方法はないじゃないか」と言い放った。この豪胆な態度を見て、周囲は落ち着きを取り戻したという。
佐藤中隊長が軍務について同僚と議論となり、その是非を判断してもらうために大隊長である黒木の寝所に赴いたところ、黒木は「鯉は濃汁が一番よか」と寝言を繰り返して寝ていた。佐藤は不平を抑えて一夜を明かし、翌日再び相談しようとしたところ、同僚はすでに黒木から謹慎処分を受けた後であった。不思議に思った佐藤が副官を問いただすと、黒木は狸寝入りをしながら両者の是非を判断していたのだと知らされた。後日、黒木は佐藤とその同僚を酒席に招いて和解させている。
黒木の陣中に、酒に酔うと傍若無人な振る舞いをする士官がいた。周囲が取り押さえて制裁を加えようとしたところ、黒木はそれを押し止め、その士官の酔いがさめると「君は弱いなぁ。酒を飲むのはええぢゃ。昨夜(よんべ)のごと酒に飲まれちゃいかんぢゃ」と諭したという。
日清戦争後、帰宅した黒木はちり紙三帖を投げ出し「おい、これは恤兵部(慰問品を管理する部門)の寄贈品だが、戦地の土産はこれだけだぞ」と言って家族を唖然とさせたという。
日露戦争開戦前のある日、海軍大臣副官の野間口兼雄が山本権兵衛の部屋へ書類を届けに行くと、権兵衛と話し終えた黒木が退室するところであった。権兵衛が「黒木、しっかりやってくれ」と声をかけると、黒木は「どうにかなろうぜ」とだけ言って立ち去った。後年、野間口は次のように語った。「あの時は感心させられた。大将自ら『心配するな。存分にやっつけてやる!』と興奮しているようなら、戦いに勝てるものではない。強敵を前に、スポーツにでも行くように『どうにかなろうぜ』と言ったその一言には千鈞の重みがある。大将たるものあのようでなければならぬ。」
第一軍の出征前、寺内は黒木に対し「日本軍隊は敵に劣らない。ただ、参謀部の力は怪しいと思う」と述べた。しかし、黒木は幕僚達に対しては次のように訓示した。「勝負を眼中に置くことなく、道理に戦え。責任は自分が引き受ける。充分に尽くすべきを尽くせば、将来後世に不名誉を残すことなし」。
日露戦争開戦当初、ロシアが必ず勝つと思っていた韓国の某官吏はクロパトキンへの贈答品として花瓶を用意し、ザスリッチに預けた。しかし、ザスリッチが鳳凰城から退却する際に花瓶を置き忘れたため、後に入城した黒木軍に接収されてしまった。黒木はこの花瓶がクロパトキンへの贈答品であることを知ると、書面を添えてクロパトキンの司令部に送り届けさせた。その文中には、「願わくば友情の花、この花瓶中に咲いて爛漫たらんことを」という一文があったという。
数日後、花瓶を受け取ったクロパトキンから黒木宛に礼状が届いた。そこには「日本人は平時余が漫遊せし時も、友誼の至らぬ事なきを示せしが、今戦時となるも、敵として頗る美しき精神を有せる者なることを示す。余はかかる敵と戦い、たとえ敗北しても決して恥辱に非ずと信ず」と書かれていた。
ある夜、第一線で突如銃砲声が聞こえた。あまりに騒々しいため副官が「何か起こりましたか?行って聞いてまいりましょうか?」と言い出すと、黒木は「いや、聞かなくてもよい。俺に用事があれば向うから来るはずだ。こっちで騒ぐと、部下はさらに騒ぐからな」と静かにそれを制した。後になって、この時の騒ぎは何でもない事が分かったという。
我が威名赫々たる黒木将軍は、波蘭人の子孫にしてクロンスキー将軍なるべしとの謬説、一時道聴となりて、東欧に伝わることあり。露国を仇視すること参商もただならざる波蘭人等は、この謬説を真の事実と信じて同情を寄するものすくなからざるが、近頃一封の小包郵便を寄せて、その昔波蘭国に使用されたる銀銅貨各一個を送り来れるものあり。そは北米合衆国オハイオ州カントン市に、年久しくトロンスキー衣服会社を営めるソール・トロンスキーといえる波蘭種族の末裔なり。(中略)将軍はこの贈物に接するや、その己を波蘭人視するを怒らず、却って亡国の恨みを抱ける彼ら末裔を憐み自ら下して返書を認め、添うるに露兵の肩章二枚及び、自己の写真一葉を以てし、暗に己の日本人たるを示すと同時に、彼の希望に任せて露兵の衣服の片端を贈与す。(中略)トロンスキーの文書を通俗往復文に訳述すれば、その意義大要左の如し。
黒木閣下
米国の一市民として、日本人の一朋侶として、閣下の道の友として、小生は日ごとに新聞紙に就いて貴軍に関する好音の出ずるを注目致し居り候。閣下の祖父母は波蘭に生まれ給いし由、小生の祖先も同様に御座候えば、小生も閣下と等しく露国に慊らず候。封入の貨幣は御一覧あらば見覚えあらんかと存じ候が、これは幾年となく拙宅にありしものにて、丁寧に保存致し来たり候えども、この度特に進呈申し候。米国にありて常に閣下の勝利を祈りつつある一人の贈物として、御受納下され候はば、有難き仕合せに存じ候。(中略)
もしただの一字にても御自筆の書状と併せて露兵の衣服の片端にても宜しく候故、記念のため御恵み下され候はば、歓喜これに過ぎず候。謹言。
「日露戦争実記 第六十八編」より
明治39年、大使館付武官としてアメリカに駐在していた田中国重はタフト陸軍大臣に呼び出された。「今度、鴨緑江の勇将がアメリカに来るそうだから歓迎会を開催したい。招待状を方々に配りたいので黒木さんの名前を教えて欲しい」そう言われた田中であったが「為驕vを何と読むのかが分からない。当時の大使であった青木周蔵も読めなかったので、本国の陸軍省に問い合わせてからタフトに教えた。するとタフトから「読めない事はないだろう。利口な日本人が、他人に読めない字を名前に使う筈がない」と言われたという。
緒戦の鴨緑江でロシア軍を打ち破った勇将 黒木の人気は、海外では乃木以上であった。渡米した黒木がタフト陸相主催の大宴会に出席した際には、諸外国の皇族、公使が居並ぶ中にも関わらず「日本の英雄、即ち鴨緑江の英雄をここに迎えることは未だかつてない。将軍を迎え、我々は大いに歓迎する」とタフトが挨拶するほどの主賓扱いであったという。また、ルーズベルト大統領も他国の代表者に対しては簡単な挨拶だけで済ませ、黒木と日本使節一行はわざわざ別室に案内してシャンペンで祝杯を挙げるといった大歓迎ぶりであった。
黒木は米国各地で歓迎されて演説を求められた。しかし黒木は五分程度しか話さなかったため、代わりに通訳が十五分ほどかけて英語で話した。するとアメリカ人達からは「日本語は便利なものだ。将軍が五分で話す日本語は、英語に訳すと十五分もかかる」と感心された。