バーヤンが第二駆逐隊を攻撃。
第三戦隊が駆逐隊の救援に向かう。
マカロフが旅順艦隊を率いて出港。
第三戦隊はマカロフをおびき出すために変針。
第一戦隊の姿を見たマカロフは反転し港に向かう。
ペトロパウロウスクが触雷し沈没。
明治三十七年三月、マカロフ中将が旅順艦隊司令官となった。マカロフは前任者のスタルクとは違い、積極的に出撃して日本海軍を挑発し続けた。その出撃ルートに一定の規則性があることに気づいた真之は、通過地点への機雷敷設を提案、これを実行に移した。
四月十三日、旅順艦隊は駆逐艦同士の交戦に呼応する形で出撃したが、連合艦隊主力の手前で反転し港に向かい始めた。その帰路、旗艦ペトロパウロウスクは日本側が前夜に敷設した機雷に触れ轟沈、マカロフ中将は戦死した。このことで旅順艦隊の士気は下がり、旅順で対峙していた両海軍の均衡を破ることとなった。
(左)旅順艦隊の旗艦ペトロパウロウスク (右)ペトロパウロウスク沈没の図 . |
洋上に敷設された機雷 |
ペ・ラレンコの日記によると、ペトロパウロウスク沈没後に多くの人々が海岸に駆けつけてきた。そして彼らは「親を失った孤児達が、死んで葬られた父が帰ってくるのを待つように」その場を去ろうとはしなかったという。
勇敢をもって知られたバーヤンの艦長 ウィーレン大佐は後に大将に昇進し、第一次大戦中はクロンスタット軍港の長官であった。大戦視察のため欧州へ出張していた真之も同港を訪れている。同行していた山梨勝之進は、この時のことを次のように回顧している。『長官は夫人及び令嬢と共に極めて慇懃なる態度にて一行をお茶に招ぜられ、色々と戦況などの御話あり、また我々の軍港視察に対して如何なる希望も容れ案内するという打ち解け方で実に気持ちがよかった』。