出身地 |
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生没年 |
1859年〜1928年 |
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陸軍士官学校 |
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陸軍大学校 |
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日清戦争時 |
(ドイツ留学中) |
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日露戦争時 |
満州軍参謀 |
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最終階級 |
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著書 |
「基本戦術講授録」 |
仙台藩出身。藩校 養賢堂、二松学舎を経て明治15年に旧5期生として陸軍士官学校を卒業。広島鎮台での3年間の部隊勤務後に陸軍大学校に入学し、明治20年には3期の優等で卒業した。その後、第5師団副官、第2軍参謀、ドイツ公使館附武官、参謀本部第一部長などを歴任。明治23〜26年と28〜32年には陸大の兵学教官として戦術教育を担当しており、教え子の中には日露戦争中に軍参謀を務めた者も多かった。
明治37年、児玉源太郎の要請で満州軍の作戦参謀に就任。黒溝台会戦では判断ミスがあったが、遼陽会戦から奉天会戦まで主要作戦の策定で中心的な役割を担った。戦後は参謀本部第1部長、旅団長、師団長、朝鮮駐剳軍司令官、軍事参議官などの要職を歴任し、大正7年に陸軍大将となっている。
長岡外史が日本にスキーを普及させたことは有名な話であるが、それ以前に、松川が日清戦争の頃に日本にスキーを持ち帰っている。これが日本初のスキーという説もある。
松川の研究をされている長南政義氏によると、松川は日清戦争開戦時はドイツ駐在武官であり開戦後に本国に呼び戻されているため、日清戦争で中国大陸に渡った時の戦利品として持ち込んだという戦利品説と、ドイツ駐在武官時代にスカンジナヴィアから持ち込んだという説の二説があるとのこと。つまり、時期は「日清戦争期」でも、その意味が大きく違うとのことである。なお、松川が持ち帰ったといわれるスキーは現存し、松川の息子を顕彰する記念館で展示されている。
満州軍総司令部発足直後、作戦主任参謀に抜擢された松川は一度は辞退したが、児玉から「松川の作戦はそのまま実行する。幹部の会議でとやかく議論はしないから、国のために頑張ってくれ」と言われ、その期待の大きさに感激して就任を受諾した。しかし、この一件で自信がついたのか、多少傲慢になってしまった。ある日、桂と山県が第二軍の上陸地点を松川に尋ねたところ「児玉閣下との約束もあり、元帥、首相であっても打ち明けられません。常陸丸襲撃の前例もあるので、機密を漏らすことは軍の不利を招きます。特に口の軽い政治家などには話せません」と皮肉を言った。この一件で困った児玉は、自ら山県に上陸地点を打ち明けたという。
総司令部の一行が湯崗子(とうこうし)に到着したときのこと。屋根にとまっていた鳩を児玉が空気銃で撃ち落としたのを見た松川が一句 『黒鳩が こだまに会うて 投降し (とうこうし=湯崗子)』。
明治三十八年、戦後の帝国議会は秘密会を開いて陸海軍から戦争経過の報告を聴取した。報告はそれぞれ二時間にわたる長時間のものであり、海軍は秋山真之が、陸軍は松川が報告演説を行った。この時の松川の報告演説は「音吐流るるが如く條理井然として一糸乱れず、為めに六百余の議員をして酔えるが如く傾聴せしめたりき」と評されている。
松川は任地毎に書の号を変える習慣があった。「号を変えることで、後年になって、その時代のことがより鮮明に思い出せるから」というのがその理由であり、金沢時代は「尾山」(金沢の別称)、朝鮮駐箚軍司令官時代は司令部の所在地にちなみ「龍山」、東京時代は渋谷にちなみ「詩仏耶」、仙台時代は「僊南(または仙南)」などとしていた。
松川は動物好きであった。大正六年末には愛犬と一緒に写真を撮り、年賀状ではその写真の左右に愛犬からの挨拶も書き添えている。
ここでは長南政義氏が翻刻した資料(國學院法政論叢 第三十輯 「資料紹介 陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌」)をもとに、明治三十五年に松川が手帳に記した軍人たちの人物評を紹介していく。特に上司である田村に対する酷評、開戦前の大山の態度に対する批判は興味深い。
なお、原文および論文では漢字片仮名交じり文であるが、読みやすいように平仮名に改めると共に、一部の漢字も平仮名表記とした。また、句読点を付記し、人名については()で追記した。
○田村次長(田村怡与造)は軍政あるを知りて戦略戦術あるを知らず。軍政を以て国防の計画を抱合せんとするに至りては甚だしき誤謬たるを免れず。
○田村次長は諸務を総攬するの人物にあらず。諸務の細大を問わずこれを親からする人なり。故にこの人にして病気等の支障ある時はこれを代理する者、手の出す所を知らざらん。人は決して万能にあらず。
○田中(田中義一)は自信力に強し。然れども論説荒誕に渉る処書生気を免れず。
○田村は上官、特に勢力ある上官に対し全力を以て感情を害せざる様に勉むる有様は誠に醜し。ながらしかし、これがこの男の長所でもありわるい処でもある。目下の者に対しては全くこれに反対で、強情且つ威張ること妙なり。
○大山侯(大山巌)は実に恐露病に侵されたる人なり。とても新事業大決断を決し得る人にあらず。
○井口(井口省吾)は事を論ずるに注意甚だ周到なり。実に間違い無き人物と云うべし。
○福島(福島安正)は満州問題に関し意気誠に昂る。その着眼もまた大いに高し。
○落合(落合豊三郎)は大事の前に当たり非常に持重の人間ならん。その持重固より好しなり。然れども決断なければ大事を成し得る能はず。
− 以上、長南政義氏の著作『國學院法政論叢 第三十輯 「資料紹介 陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌」』より抜粋、引用 −
松川は明治23〜26年と28〜32年には陸大の兵学教官として戦術の講義を担当していた。この頃の教え子には、日露戦争で参謀を務める田中儀一、大庭二郎、津野田是重らがいる。明治25年に松川が口述した講義内容は明治30年に「基本戦術講授録」として発行され、陸軍大学校の戦術参考書として使われた。内容は歩兵、騎兵、砲兵の基本隊形、攻撃、防御について解説しているほか、佐倉や府中の地図を用いて小規模な想定戦問題を掲載している。古書市場での流通はほとんど無いので入手は困難だが、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で閲覧可能。
松川流の兵法は大胆ではないものの「謀密にして確実なり」と称せられており、山県有朋からは「戦如風發」と大書した額を贈られてその戦功を賞されたという。