永沼挺進隊と将校斥候

坂の上の雲 > 軍事 > 永沼挺進隊と将校斥候

永沼挺進隊

 

 明治37年12月下旬、挺進隊派遣の許可を得た好古は永沼中佐を隊長とする第一挺進隊を編成。兵力は永沼率いる本隊が軍医、看護卒などを含めて20騎、そして第一中隊、第二中隊がそれぞれ78騎の計176騎であった。各人は騎銃、弾薬375発、予備蹄鉄、水のう、征露丸、凍傷膏、包帯、防寒頭布、手袋、靴下、胴着、醤油エキス、メキシコ銀貨50円分などを携行していた。
 永沼挺進隊は1月9日に蘇麻堡を出発。哈爾套を経て、2月11日に新開河の橋梁爆破を行った。2月14日、張家窪子で追撃してきたロシア軍の砲撃を受けた永沼は、敵への攻撃を決断する。永沼挺進隊が乗馬のままロシア軍が陣取る高地への突撃を開始すると、敵は土塀に囲まれた部落への退却を開始。そこで永沼はそのまま追撃戦を行い、部落での激戦の末、敵を敗走させた。しかし、この戦闘で浅野中隊長以下十数名を失い、また多数の負傷者も出て戦力は半減してしまった。そこで17日に長林子で部隊の再編成を行い、その後は小部隊ごとに通信施設や糧秣施設の破壊活動を行った。3月24日、永沼挺進隊は大石橋で騎兵第八連隊と合流し、75日間に及ぶ挺進行動を終えた。
 挺進隊が敵軍に与えた損害は微々たるものであり、爆破した橋梁も1日以内には復旧していた。しかし、敵に与えた脅威は大きく、それが奉天会戦の戦況にも大きな影響を及ぼしたのであった。


敵中横断三百里


 

 沙河対陣中、満州軍総司令部は奉天会戦に備えた情報収集を行うために好古に将校斥候の派遣を命じた。そこで好古は、山内保次少尉以下4騎を1月4日に、建川美次中尉以下6騎を1月9日に鉄嶺へ向けて派遣した。
 山内隊は途中で馬賊を指揮する橋口少佐と会い、紹介された通訳を伴って鉄嶺を目指した。その後はロシア兵を装って潜行を続け、食料の確保や極寒期の野営、さらに敵の追撃に苦しみながらも14日には鉄嶺近辺に達することができた。ここで山内は報告のために通訳を送り返すとともに、ちょうど発生した霧に紛れて鉄嶺市街に進入した。途中で何度か敵騎と出くわしたが、引き返すとかえって怪しまれると思ってそのまま横を通過し、さらに100騎ほどの敵縦隊の後に付いて行くなど大胆に行動して敵情を探り続けた。そして敵の追撃をかわしながら1月21日に沈旦堡に帰還した。
 建川隊もミシチェンコ騎兵団に遭遇して2個小隊に追われるなど危険を冒しながら潜行を続け、17日に鉄嶺に進入。市内で出会った敵歩哨に対してはロシア語で「巡察に行く」と答えるなど、ロシア兵を装って敵状を偵察した。また、時には工事に向かう中国人に話しかけ、タバコを渡して工事状況などを聞き出した。こうして鉄嶺の偵察を終えた建川隊はさらに東南進して敵情偵察を続行することを決めた。その途中、一本道で敵100騎で遭遇。建川は顔を見られないようにするため、急いで全員に蹄鉄の検査を命じた。近づいてきた敵将校が「良い天気だな」と語りかけてきたので、建川は下を向いたままロシア語で「いい天気だな。どこに行くんだ」と答えた。すると敵は「工事の監督だ」と言って、そのまま通り過ぎてしまった。その後も敵の輸送部隊に紛れ込んで荷を調べるなど大胆な偵察活動を続けたが、このあたりは敵の勢力下であったために敵の追撃が激しくなり、乗馬戦で敵の包囲を突破したこともあった。その戦闘中に重傷を負って敵中に取り残された沼田一等卒は捕虜となって敵司令部に送られたが、その勇気を称えられてロシアの首都で丁重に扱われた。沼田は戦後に帰国し、他の隊員とともに金鵄勲章を受けている。沼田以外の5人はその後も潜行を続けて南下を続けた。十数メートルの崖から滑り落ちたり、野営中に全員が雪に埋まってしまうなどたびたび危険な状況に陥ったが、24日に龍王廟で見方と合流して無事に帰還することができた。この建川隊の活躍は山中峯太郎の冒険小説「敵中横断三百里」(昭和32年に映画化。脚本は黒沢明が担当)のモデルとなった。
 山内、建川らは「鉄嶺の部隊は総予備軍ではなく、単なる後方守備隊である」「鉄嶺付近の工事は簡易なものである」「北方から列車で鉄嶺に来た兵士達は、そこで下車することなくそのまま南下していく。北上してくる列車はほとんど空席」など、ロシア軍が鉄嶺への撤退戦術をとるのではなく奉天での決戦に備えていることをうかがわせる重要な情報をもたらした。ちなみに、総司令部に報告に行き、児玉から「揮毫してくれ」と言われた兵卒は建川隊の豊吉軍曹であった。

 戦後、山内は騎兵学校教育に携わり、少将で退役。昭和10年に行われた座談会にも出席し、好古や豊辺の思い出話を語っている(「参戦二十将星 日露大戦を語る」)。山内の息子は太平洋戦争中に栗林兵団の参謀となり、硫黄島で戦死した。
 建川はインド駐在武官などを歴任。昭和6年、関東軍の不穏な動きを察知した陸軍上層部は、説得のために参謀本部第一部長となっていた建川を奉天へ派遣する。しかし、関東軍の謀略に賛同していた建川は板垣征四郎らに対し、上層部が計画を察知していることを告げて、自分は料亭で酒を飲んで寝てしまう。そして板垣らが行動予定を早めて柳条湖事件を起こし、満州事変が勃発したのであった。その後も三月事件、十月事件(どちらも陸軍中堅幹部によるクーデター未遂事件)に関わり、二・二六事件後に予備役へ編入される。退役後の昭和40年には駐ソ大使となり、日ソ中立条約の調印を成功させた。