金州、南山の戦い

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戦闘の経過


五月二十六日の両軍の配置  〜 「明治卅七八年日露戦史」 第一巻付図 第十二 〜


 奥保鞏率いる第二軍は五月中旬に遼東半島に上陸。そして旅順要塞に籠もるロシア軍を北方の主力と分断するために金州攻略に向かった。
 偵察によって南山に堅固な防御陣地があることを知った奥は重砲の配備および連合艦隊への支援を要請した。しかし、大本営は重砲は不要と判断、さらに艦隊支援の有無に関わらず攻撃するよう訓令した。
 五月二十五日に第四師団が金州を占領、翌二十六日早朝から南山への砲撃を開始した。敵軍の砲撃が衰えた午前八時より総攻撃を開始したが、鉄条網や機関銃に阻まれて前進は難航。軍総予備も投入したが午後になっても損害が続出したため、幕僚は一次撤退を具申した。しかし奥はこれに応じず、攻撃続行を命令。到着した連合艦隊の援護射撃もあり、午後八時三十分に南山を占領した。


南山のロシア軍陣地  〜 「明治卅七八年日露戦史」 第一巻付図 第十二 〜





第二軍司令官、師団長。2列目向かって模擬から四人目が軍司令官の奥保鞏。
奥の向かって右側が大山、左側が立見。。

逸話

 南山の戦闘当時、まだ軍の後方機関が上陸していたなかったため野戦病院は二つ、約800人分の収容能力しかなかった。第二軍参謀の鈴木荘六が昼頃に軍医部長 森鴎外に対して「死傷はどのくらいでしょうか」と尋ねたところ、森は「先刻の報告では約二千あるというから、三千人くらいになるだろう」と答えたという。


 南山で日本軍は敵の機関銃掃射に悩まされた。この頃、ロシア軍は水冷式のマキシム機関銃を、日本軍は空冷式のホチキス機関銃を採用していた。このホチキス機関銃を発明したのがベンジャミン・B・ホチキス。彼が機関銃の弾丸送出機構からヒントを得て、文具「ホッチキス(アメリカでは「ステイプラー」と言わなければ通用しない)」の針送り装置を考案したとも言われている。しかし確証はなく、彼の弟エーライ・H・ホッチキスであるという説もある。