出身地 |
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生没年 |
1841年〜1908年 |
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陸軍士官学校 |
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陸軍大学校 |
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日清戦争時 |
第一軍司令官 |
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日露戦争時 |
第四軍司令官 |
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最終階級 |
戊辰戦争で兄 鎮雄と共に従軍し、鳥羽口や会津、函館と転戦して活躍。維新後に上京して御親兵幹部となり、佐賀の乱に出征。明治10年、西南戦争では第二旅団参謀長として田原坂などで指揮を執った。明治11年に大山巌の欧州差遣に随行し、帰国後に広島鎮台司令官となる。明治27年の日清戦争では第五師団長として出征し、平壌攻略戦では自ら手勢五千を率いて戦功を挙げた。途中で山県有朋の後任として第一軍司令官に任じられ、戦時中の明治28年に大将に昇進。
凱旋帰国後は近衛師団長、近衛師団長、東部都督、教育総監、軍事参議官などを歴任し、明治37年に日露戦争が勃発すると第四軍司令官として出征した。第四軍は中堅軍的な位置付けで、戦線が膠着しがちな敵正面を担当することが多かったが、両翼に展開する他軍と連携し各会戦を勝利に導いた。戦後、元帥となり貴族院議員も務めたが、明治41年に死去。
戊辰戦争で奥州二本松攻撃に参加した際、敵の剣客と白兵戦になり大怪我を負った。後年「あんな激しい戦闘は自分の軍人生活中、未だかつてなかった」と語るほどであったという。その戦いから二十数年後に検閲で二本松を訪れた野津は、地元の古老からその時の剣客が戊辰戦争で戦死したことを聞き、感慨に堪えず「打つ人も打たる人もあわれなり同じみくにの人と思へば」と詠んだ。
田原坂の第一回総攻撃では敵塁の百メートル手前にまで肉薄した激戦が繰り広げられ、そのうち同士撃ちまで始まった。止めようにも伝令となる者もいなかったため、ついに野津自身が飛び出していき、同士撃ちをしている兵士らの袖を掴んで「味方撃ちをやってはいかぬ」と止めて回ったほどであった。後に田中国重に対し「日清戦争は戦いじゃない。あれは遊びだ。田原坂の戦いに比べたら何でもないよ」と語っている。
西南戦争後間もない頃、知人が野津宅を訪れると、床の間に将兵の姓名を記した掛軸がかかっていた。野津は「これは皆部下ぢゃ。自分は幸か不幸か無事に帰って来たが、ここに記した部下は皆名誉の戦死だ。招魂社に神となって祀られているが、自分もまた別に一軸に仕立てて朝夕礼拝している」と襟を正して語ったという。
第一軍の出征が決まった直後、野津が黒木の司令部を訪れた。ちょうど黒木は留守だったので藤井が応対すると、野津はポケットから一枚の古い地図を取り出し、「これを黒木にやりたいと思って来たのだが、居ないようだから渡しておいてくれ」と言って藤井に預けた。それは日清戦争時に野津が使用していた鴨緑江付近の地図であった。
野津を軍司令官として出征させるに当たり、勇猛果敢な彼が参謀本部に従うことなく突進していくことが懸念された。そこで、慎重な黒木を第一軍に配し、野津は最後の中堅軍を任されたと言われている。また、抑え役の参謀長は日清戦争でも幕僚を務めた野津の娘婿 上原勇作が起用され、時には司令官と参謀長との間で職務上の意見の衝突もあったものの、第四軍司令部内は他軍に比べると事が上手く運んだという。
若い頃に精神力鍛錬のために処刑場へ行き、死体から肝をとりだして喰ったということをよく自慢していた。また、沙河対陣中は暇つぶしで狩りに出かけていたが(12月6日には、旅団を動員して狩りを行い、鹿9頭を捕獲している)、獲物を捕るとまず生き血を絞って呑み、しかもそれを部下にも勧めたので幕僚達は困っていたらしい。
普段は幕僚に小言を言うこともなく、幕僚室へ行くこともない野津であったが、作戦の大事な場面では百戦錬磨の第六感が働くせいか、数人の幕僚を従えて前線の師団司令部へ視察に行くことがあった。奉天会戦終盤の3月9日、満州軍総司令部から第四軍に対して奉天東北部への進出が命じられ、軍の総予備も全部投入してロシア軍を追撃することになった時は「軍の予備兵なんか一兵もいらぬ。俺も行く」と言い出したという。
第四軍隷下のある師団の進出が遅れた際、参謀の立花小一郎が「第四軍の名誉に関する。速やかに進出せよ」と命じた。すると野津は「軍は名誉のために戦をしているのではない」と一喝したという。