出身地 |
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生没年 |
1849年〜1912年 |
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陸軍士官学校 |
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陸軍大学校 |
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日清戦争時 |
歩兵第一旅団長 |
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日露戦争時 |
第三軍司令官 |
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最終階級 |
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伝記、資料 |
「乃木希典」(宿利重一) |
長州藩の支藩 長府藩士の子として江戸屋敷で生まれ、帰郷後に報国隊士として幕府軍と戦った。明治4年に少佐として陸軍に入隊し、第14連隊長心得として小倉に赴任。明治9年、秋月の乱が勃発すると部隊を率いて迅速に鎮圧した。その翌年の西南戦争では熊本鎮台に合流する途中で西郷軍に敗退し、軍旗を奪われた。
その後、ドイツ留学を経て、第一旅団長として日清戦争に従軍。この時は旅順要塞を一日で陥落させた。さらに台湾征討にも従軍し、明治29年には台湾総督となった。統治失敗の責任を取って辞職した後は第十一師団長となるが、間もなく休職。
明治37年、日露戦争が勃発すると山県有朋の推挙で第三軍司令官に就任。旅順要塞攻撃の指揮を執るが、多くの死傷者を出すこととなった。また、この戦争によって乃木自身も二人の息子を亡くしている。
戦後は軍事参議官や学習院院長などを務めるが、大正元年9月、明治天皇の大喪の日に夫人と共に殉死した。
乃木は幼少の頃に母親が外した蚊帳の吊り鉤が目に当たったのが原因で左目の視力を失っていた。しかし母をかばって周囲にそのことを語らなかったため、彼が隻眼であったといいうことは余り知られていない。
師団長時代のある日、乃木は移動のために将校らと共に汽車に乗った。発車間際になって、乃木らが座っていた一室に数人の芸者が乗り込んできて、辺り構わずしゃべり始めた。するとそのうちの一人が巻き煙草を取り出し「ダンナ、ちょいと火を貸してくださいな」と煙草を吸っていた乃木に声をかけた。周りの将校達は驚いたが、乃木は平然として「オオ」と言って吸いかけの煙草を渡して火を移した。
日露戦争後、長野の師範学校で講演を頼まれたとき、乃木はいくら勧められても演壇に立とうとはしなかった。演壇の下で生徒たちを見渡しながら、「僕は・・・・諸君の兄弟を殺した者だ・・・・」とただ一言発したあとに泣き続け、結局その日の講演はそれで終わりになってしまった。
明治41年秋、近畿地方で陸軍大演習が行われ、乃木は南軍司令官として参加した。演習は予定通り進行して南北両軍決戦の時を迎えたが、不利な状況にあった乃木軍は攻撃側であるにも関わらず一向に動こうとしない。秋の寒風が吹き込む御野立所で天皇を長時間待たせていることに苛立った幕僚長が南軍の発動を促すと、乃木は「演習は実戦の訓練であって遊戯ではない。このように不利な状況で軍を動かすことは演習を遊戯視するもので、参加将兵に悪影響を与える」と言って、断固として軍を動かそうとしない。そこで、困った幕僚長は南軍が増援を得たという想定を設けることによって演習を速やかに終わらせた。ちなみに、このときの南軍参謀長は秋山好古であった。
日露戦争末期のある日、乃木は好古の司令部を訪れた。しばらく語り合ったあと、不意に乃木が「ちょっと酒を買ってきてもらおうかな」と言うと、「買わんでも、司令部にありますよ。私がご馳走します」と好古が笑いながら答えた。すると乃木は「そうか。それでは、わしも美味いものをご馳走しよう。台所はどこかね」。好古の副官である中屋新吉が台所へ案内すると、乃木は大迫尚敏から贈られたスッポンを取り出し、「秋山もまだ戦地ではスッポンを食べたことはなかろう」と言って、中屋に料理法を教示しながら自らスッポンを料理し、皿に盛りつけた。その夜、乃木と好古はスッポン料理を肴に酒を飲み、夜更けまで語り合った。
英国王戴冠式のため渡英した乃木は、同行した東郷に、「自分は今度の旅行のついでに、ロシアに行ってステッセルを訪ねてきたい。昨日の敵国も今日の友邦である。聞くところによると彼は今、逆境にあるそうで、同情に堪えない次第である」と話した。「ロシアは敗戦の屈辱を受け、特に君によって余儀なくされた旅順開城はステッセルにとっては致命傷である。君の武士道的慰問は、むしろ彼にとっては恥辱を新たにすることになるだろう」と東郷から反対されたが、それでも乃木はロシアへ行くつもりであった。しかし、やむを得ぬ事情から、結局ロシア行きを断念したという。
第三軍の参謀であった井上幾太郎は乃木について次のように回顧している。
「私は動員まで乃木さんという方を知らなかった。ただ非常にやかましい人で、僅かな事でも叱られるというように思っていました。しかし、実際に会ってみると全く違っている。叱るというようなことはなく、時には冗談を言うことが好きでありました。始終冗談を言って若い将校をからかっていたというような感じで、私は大変安心しました。
しかし、自分でなさることは非常に謹厳でした。それから、例えば日々の食事は兵士と同じ麦飯を何の不満もなく食べておられた。それも強いて努めているというわけでもなく、ただ自然にそういう風であった」
児玉は戦闘指揮で旅順に滞在していた間は、一週間ほど乃木と共に高崎山の穴倉に寝泊まりしていた。ある日、穴倉で児玉、乃木、田中国重の三人が談笑していると、児玉が乃木をひやかし始めた。「田中、この乃木の爺は今はやかましい爺だけれども、若い時ヨーロッパに行く前は非常にしゃれっこでね。ズボンなどは何とかというもの、襦袢などは何とかという襦袢を着て、非常なしゃれっこでいたが、欧州から帰ってきたらこんなやかまし屋になった」。乃木はそれを笑いながら聞いていたという。
明治37年11月30日、司令部に一人で残っていた津野田のもとに乃木保典戦死の知らせが届いた。その後、しばらくしてから乃木が司令部に帰営した。いつもであれば乃木は自室に入る前に「何か重要な情報は無かったか」と聞くのだが、この日は「一人で残留して寂しかっただろう」と言ったので、津野田は一瞬返事に窮した。その後、乃木が何も言わずに自室に戻ったため、津野田は数分ほど経ってから軍司令官室へ赴いた。乃木は帽子、外套を脱がずに軍装のまま仰臥していたが、津野田の足音を聞くと「何事だ」と起きあがった。津野田はしばらく発言できなかったが、ようやく口を開き「誠に悲しむべき出来事をご報告しなければなりません・・・」と言いかけた。すると乃木は直ぐに「その事ならば既に承知している。よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ、よく死んでくれた」と言い、また仰臥したという。
現在、港区南青山にある乃木邸前に建っている「乃木将軍と辻占売り少年」の像は、乃木が明治24年に金沢へ出張した際に、一家の生計を支えるために辻占いを売りをしていた8歳の少年の姿に感銘を受け、その少年を激励して金二円を手渡したというエピソードが元になっている。
日露戦争終結後、乃木は俸給の大半を生活に困窮する部下や負傷兵、戦死者の遺族のために使っていたため、この辻占売り少年のエピソードも日露戦争後の話と混同されることが多くなった。父親を旅順攻撃で失った少年が辻占いを売りながら病気で寝たきりの母親の面倒を見ているという話を聞いた乃木が少年の家を訪れ、ちょうどそこに来ていた借金取りに全額立替えて返済し、さらに仏前に二十円を置いて帰っていったという逸話もある。
夏目漱石は小説『こころ』の登場人物「先生」に次のように語らせている。
『御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。』
明治41年5月、満州に派遣された乃木は旅順を訪れ、当時を追懐して次の歌を詠んだ。
岩角に咲く撫子の紅を誰か血潮そと偲ひそ見る
二つ三つ岩間に咲く撫子は今も血潮そ見ゆるなりけり
奉天会戦前、津野田が第三軍の部署や輜重運用に関する計画書を提出したところ、一読した乃木は
「お前は何を基礎としてこの距離を計算したか」
と質問した。津野田が地図とコンパスを用いて測定したと答えると
「それはいけない。このような地図の不完全な地域では全て錯誤を生じやすいから、食糧弾薬などの補給については充分に余裕を見ておかないと意外な失態を招くことになる。毎日の行程を一時間ずつ短縮してさらに計画を立て直すがよい」
と注意した。後に津野田は、次のように評している。
「思いめぐらせば、数日にわたる大会戦中、疾風迅雷の行動をなした第三軍の諸隊が、たとえ充分とは言えないが給与及び弾薬補充の上において、故障のなかったのは、一に将軍の深甚なるこの注意がその因をなしたのである」
日清戦争の際、金州での戦いを終えた乃木は野戦病院を視察した。その時、運び込まれたばかりでまだ十分な手当てを受けていない負傷兵2人が、痛みと寒さとで苦しんでいるのを目の当たりにした乃木は、行李から2枚の外套を取りだすと、
「これは先日、山地閣下から頂いたものだが、俺一人が着るわけにもいかないから、負傷兵にかけてやってくれ」
と言って、軍医に手渡して帰っていったという。
・・・・(続く)