優れた詩人であったと言われている乃木の作品のうち、特に有名な三作は「乃木三絶」と呼ばれています。その三作品を津野田の回顧談と共に紹介していきます。
山川草木轉荒涼 さんせんそうもくうたたこうりょう
十里風腥新戦場 じゅうりかぜなまぐさししんせんじょう
征馬不前人不語 せいばすすまずひとかたらず
金州城外立斜陽 きんしゅうじょうがいしゃようにたつ
明治三十七年六月七日、乃木は津野田と兼松大尉を従えて南山の視察に向かった。戦後間もない現地は詩の通り死臭が漂い、また三合目からは道が無くなり下馬して進まなければならなかった。出発から約2時間後に頂上に到着。津野田らにとっては防御工事の実況検分でしかなかったが、乃木は時に遠望、沈思し、その場を去り難い雰囲気であったという。その日の夕食後、乃木は上記の詩を示した。津野田は次のように書き残している。
「その巓頂(てんちょう)に於いて低徊顧望久しうて去る事能はざりし御心中は人に語られなかったけれども、斜陽に直面して之を我身の現況に照らし無限の感想を抱かれたる結果と拝察する。(中略)我々も将軍と共に天体の斜陽は見たが、遺憾ながら精神上の斜陽は感じなかった。」
爾靈山險豈難攀 にれいざんのけんあによじがたからんや
男子功名期克艱 だんしこうみょうこくかんをきす
鐵血履山山形改 てっけつやまをおおいてさんけいあらたまる
萬人齊仰爾靈山 ばんにんひとしくあおぐにれいざん
二○三高地占領の翌日(明治三十七年十二月六日)、児玉、田中と談話中だった津野田は伝騎から「乃木将軍が二○三高地へ向かおうとしている」という報告を聞き、急いで後を追った。途中、歩哨に乃木を見なかったか尋ねると、少し前に一人で山頂に向かったとのことであり、さらに進んでようやく八合目で追いつくことが出来た。当時はまだいくつかの散兵壕に籠もる敵の敗残兵との戦いが続いており、占領後とはいえ非常に危険な状況であった。山頂に達した時の感想を津野田は次のように記している。
「漸くにして巓頂に到れば彼我の勇士は格闘の儘砲弾の犠牲と化し、彼我が互いに投擲したる爆弾の黄粉は頭部、顔面及び四肢等を粉砕し、其の惨状臭気は名状するべくもあらず、俯して下瞰すれば北側の山腹には、我軍の死屍五、六千を数え、又南麓の谷底には三千有余の敵の残骸を算し、見るとして血痕、脂肪の染潤したる鉄片、又は石塊ならざるはなく、聞くとして現世に決別せんとする忠魂者の嘆声ならざるはなく、山形は容(かたち)を改めて草木は跡を絶ち、俗に言う無限地獄も斯くやあらんと想はしめた。」
そしてこの後に作られた「爾靈山」の詩については、「僅か二十八字に過ぎないが、当時の惨状と将軍の胸中とは、正に撮し得て絶妙である。」と評している。
皇師百萬征強虜 こうしひゃくまんきょうりょをせいす
野戦攻城屍作山 やせんこうじょうかばねやまをなす
愧我何顔看父老 はずわれなんのかんばせあってふろうにまみえん
凱歌今日幾人還 がいかこんにちいくにんかかえる
日露講和が成った明治三十八年九月のある夜、法庫門の陣中で乃木は突然、
「俺は帰国したくない。永くこの地に留まって蒙古王になりたい」
と言い出した。ちょうど関東都督の人選中であることを知っていた津野田は深く考えることもなく聞き流し、
「一度凱旋して、またおいでになってはどうです・・・」と答えたところ、乃木は首を振り
「いや、このまま残りたい。お前は俺についていると損をするから、他に出世の道を考えるがよい」
「いえ、損得の問題ではありません。どこまでもお供いたします」
そう答えた津野田が数日後に乃木から示されたのが上記の詩であった。
戦死した部下やその家族に対する自責の念が託された詩である。
第三軍の招魂祭で祭文を読み上げる乃木。