出身地 |
||
生没年 |
1842年〜1916年 |
|
陸軍士官学校 |
− |
|
陸軍大学校 |
− |
|
日清戦争時 |
第二軍司令官 |
|
日露戦争時 |
満州軍総司令官 |
|
最終階級 |
||
伝記、資料 |
「元帥侯爵 大山巌」(尾野実信) |
西郷隆盛、従道の従兄弟。薩英戦争後に江川太郎左衛門のもとで砲術を学び、砲術長として戊辰戦争で活躍。この頃、「弥助砲」と呼ばれる大砲も開発した。明治10年の西南戦争では別動第一旅団司令長官(後に第二旅団長を兼任)として従軍したが、西郷と戦ったことを気にして終生鹿児島に帰郷することはなかったという。
その後は欧州留学、兵制視察を経て陸軍卿、参謀本部長、陸軍大臣など要職を歴任。陸軍中枢において軍政面で重要な役割を担った。また、大警視や参議、内大臣を務めたほか、国歌「君が代」の制定にも携わっている。
明治27年の日清戦争では第二軍司令官として旅順攻撃を担当。また、明治37年の日露戦争では満州軍総司令官として指揮を執り、日本陸軍の勝利に貢献した。日露戦争後も政治的野心はなく、参謀総長と内務大臣を数年務めただけであった。
大山が視察で威海営付近の山に登った際、ある参謀の失策で午後三時に出されるはずの命令が夕方になっても下されないことがあった。大山は寒い中でも不平を言わずに六時過ぎには宿営地に戻ったが、明日攻撃ができるかどうかもわからない状況で周りが心配していたにも関わらず、大山は叱りつけもせずいつもと少しも変わらない態度で平然としていたという。
日清戦争中、大山が率いる第二軍の司令部が水師営に移されることになった。参謀の藤井茂太は宿営命令などの用事を済ませて、夜遅くに大山の部屋へ報告に行った。藤井が報告を終えて退室しようとすると、大山は「ちょっとまて」と呼び止めて、戸棚から肉ののった皿を持ってきた。「今日は水師営に司令部を設けたということで何かご馳走はないかと村中探してきたところ、鶏三羽しかなかったそうだ。その一腿を貰ったんだが、お前が腹をすかして夜中に帰って来るだろうと思って、半分は食わずに残しておいたんだ」。
日清戦争中、旅順攻撃のため水師営に進出していた大山の司令部に「敵軍6千が金州を攻撃中」との打電があった。金州が陥落すれば後方を遮断される恐れがあり、この知らせに驚いた参謀の藤井茂太は急いで大山に電報を届けた。しかし、大山は電報を見ても「そうか」と顔色も変えずに言っただけで、そのまま歩き続けていた。ちょうどその時、重傷を負って倒れている清兵と、その側で鳴いている犬の近くを通りかかった。大山はポケットからパンを取り出して犬に与えると、軍医部長に「助かるなら手当してやれ」と命じた。結局、最後まで電報の事は意に介さない様子で平常通り落ち着いていたため、藤井はその態度に心服したという。
自然の風景や植物の観賞が好きで、日清戦争の時には金州の司令部に日本からわざわざ取り寄せた桜を植え、「旭桜」と名付けた。金州から引き上げるときに別れを惜しみ、「植えおきし 我は大和に帰るとも 千代まで匂え 山桜花」と詠んだ。この時、大山は司令部内で「旭桜」と題した詩歌を募集した。
唐人も 花咲くごとに あふくらむ 朝日の影の たかきめぐみを (藤井茂太)
敷島の やまと心を 此国に うつして匂へ 山桜花 (有賀長雄)
千代かけて 朝日に匂へ 山桜 植へにし人の ほまれとともに (井口省吾)
さきいてよ 旭の桜 千代かけて 君がいさほを 身に餝りつつ (松川敏胤)
しかし、日露戦争で再び金州を訪れた時にはその桜は枯死して跡形もなかった。
日露戦争初期、対馬丸、佐渡丸などが撃沈され、新聞が「陸軍が戦勝で増長して油断した結果だ」などと非難したので、参謀本部内は非常に暗い雰囲気になってしまった。しかし大山だけは元気で、食堂でも「五平太(石炭)」「大筒(大砲)」「カーフェル(ストーブ)」など昔の言葉を使って色々と喋っていた。そばにいたある皇族が「参謀総長、五平太とは何ですか」と尋ねたところ、「五平太は五平太でごわす」と大山が真面目な顔で答えたので、一同爆笑となって憂鬱な雰囲気が吹き飛んでしまった。
満州軍総司令部の参謀だった尾野実信は、大山は「よく冗談を言う人だった」と語っている。
総司令部を戦地に行かせようという話が出始めた頃、尾野が「こういう事情ですから、ひとつ閣下も戦地に御出になり、私もお供していくことが必要になるでしょう」と言うと大山は「まだ早いでしょう。今はずっと我が軍が勝っているぢゃないか。勝っているんだから私は行かんでもよいでしょう。これで負け始めたらその時は私が出ていきます。まだ負けないから出なくてもいいでしょう」と半ば冗談で答えた。
また雨期で進軍が進まなかった時期のある日、尾野と川上操六の息子の素一を連れて散歩に出かけた。途中の畑で拳銃の試射を行った大山は、突然近くにいた素一の胸ぐらに拳銃を突きつけた。「さあ、金を出すか」と強盗の真似をして楽しんでいたという。
遼陽占領の二日ほど前、大山が軍司令部で昼食をとっていると、福島安正が「どうです、大将閣下。甘いものを差し上げましょうか」と言いながらコーヒー入り角砂糖を水に溶かして持ってきた。大山は「何だ?」と言いながら口の中に含んでいた梅干しを弁当の上に吐き出すと、受け取ったコーヒーを美味そうに飲みほした。「御所望であればもう一杯差し上げましょうか」そう言う福島に対し、大山は先ほど吐き出した梅干しをまた口に入れながら「もう沢山。飯にはやはり塩辛いものがいい」と答え、さらに「なあ、福島どん、戦地で贅沢を云うわけぢゃないが、コーヒーよりブランデーの方がよか。アハハハ」。
「総司令官として出征中は、どんなことが一番大変でしたか?」と息子からたずねられた大山は、次のように答えた。
「別に大変だったことも無かったが、若い者たちに心配させまいと思うて、知っとることも知らん顔をしなければならなかったことくらいかな」
明治35年、参謀本部の総務部長から少将になったばかりの田村怡与造を参謀次長とすることは困難な状況であった。そこで、参謀総長の大山は明治天皇に拝謁して田村を推す旨の意見を述べた後、副官の堀内文次郎に対し、
「野津のところへ行って、次長は田村にきめましたと言っておいでなさい」
と告げた。当時、将官人事は陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三者協議で決めるものであったのだが、その時の教育総監は田村の就任に反対していた野津であったため、堀内は
「これは御協議ですか?」
と念のため確認したが、大山は、
「協議ではない、行ってそう言って来ればいい」
と言うだけであった。堀内は仕方なく「ハイ」と言って要件を伝えたが、案の定「協議ではないそうです」というと野津からは”エラク怒られた”挙句、
「よろしい、私が行きます」
と言いだした野津を連れて参謀本部まで引き返すことになってしまった。
「野津閣下がこちらにおいでになります」
そう大山に伝えたところ、
「来る用がありませんのう。お茶を準備しておけ」
と茶の準備を命じただけで悠々と構えていた。そこへ”エライ勢い”で入ってきた野津と大山との間で喧嘩でも起きるのではというような雰囲気になったが、野津も大山の前では何も言なくなり茶だけ飲んで帰って行ったという。後に堀内は次のように回顧している。
「大山さんは総長室にいつも十時半頃お出でになって、日日新聞を安楽椅子に腰かけてお読みになって、上奏物には何だってお聞きになったことはなく、直ぐに書き判されて新聞ばかり読んでいられる。それから不味い参謀本部の洋食をあがって一時か二時の間に、用があっても無くてもお帰りになる。馬鹿か利口だか発見できない。しかしながら田村さんが次長になる時に、私は初めて大山元帥という人は偉い人だと感じた」
日露戦争中、作戦上の事か何かで児玉参謀総長から辞表が出されたことがあった。部下の参謀から報告を受けた大山は
「そんなことは何もございません。決してご心配なさらぬように」
と言い、さらに松川も責任を感じて一緒に辞表を提出しにくると、
「貴方がたに責任なんぞあるもんですか」
と二人の辞表を握りつぶしてしまった。これを聞いた松川は、
「俺も吹けば飛ぶような木端武士かな」
と後に言ったという。
奉天会戦では、児玉や参謀らが不眠不休で軍議する中、大山は敢えて議論には加わらずに結果だけを聞いていた。死傷者が続出し戦況が悪化し始めた頃、事態を憂慮する参謀らを見た大山は、「児玉さん、予備隊に一連隊だけは取っておいて下さい」と言い出した。これを聞いた児玉ら幕僚は、大山に如何なる奇策があるのかは分からなかったものの、この発言により元気づいた。
戦後、幕僚の一人が大山にこの一連隊の意図を尋ねたところ、「敵が攻めてきたら、その一連隊を率いて突撃するつもりだった」と答え、一同を唖然とさせた。
大将、大臣になってもつい強い薩摩弁が丸出しになり、他の軍人や閣僚は大山が何を言っているのか理解できないこともあった。しかし、得意の英語を話し出すとその印象は一変し、後妻の捨松(津田梅子と共に米国に留学)とはよく流ちょうな英語で語り合っていたという。
明治12年頃、従道と埼玉で猟を行った大山は、途中の茶屋で昼食をとった。その最中、外につないでいた犬が通りかかった巡査のズボンに噛みついてしまった。この巡査は怒りだし、女中が何度謝っても聞き入れない。そこで大山が出ていって詫びたのだが、それでも許してもらえず、犬を連れて出頭するように命じられた。駐在所に行った大山は警官から名前を聞かれてので「大山巌」と答えたところ、相手は非常に驚いた。当時の大山は川路利良の後任として警察トップの大警視の地位にあったからである。
大山が冗談を言う時(オヤマカチャンリン)は、味方の戦況が危機に陥っている時であることが知られていた。その始まりは西南戦争の時であると言われており、大山が冗談を言っていた場所を後の戦史と照らし合わせてみると、すべて味方が苦戦していた時と一致していたといわれている。