厳父は平五郎久敬といって旧藩時代は歩行目付であった。体もがっしりと大きかったし、人物も体のように大きかった。寛容で衆望の厚かった人だった。はじめは普通の徒行であったが智者であり儒者でもあったのでついに徒行目付にまでなった。親族中で何か紛擾(ふんじょう)が起こって、どうにも解決が出来ないような時には必っと久敬翁の所へ持込まれ、それを何時も手際よく捌(さば)いた。
久敬翁は、晩年には室内でも頭巾を冠っていた。冬になると火燵(こたつ)にもぐり込んでいた。そうしていっていた。
「親があまり偉くなると子供が偉くならないからなあ」。
久敬翁にとっては何だか韜晦(とうかい)的だが、これがこの人の秋山兄弟に対する教育方針であった。無干渉主義といえばそれまでだが、そこに何かもっと深いものがあったように思われる。
眞之将軍よりは好古将軍のほうが、体付から性格まですっかり俗に言う親譲りでよく似ていた。平五郎の久敬翁は後に八十九(やそく)と改め晩年は薙髪(ていはつ)して天然坊と号した。久敬翁は文政5年生まれ、明治23年69歳で逝かれた。
〜 伝記『秋山眞之』より 〜
真之は、幼い頃に父から聞かされた「桃太郎」の話をいつまでも覚えていた。そして、その「桃太郎」の昔話が持つ意味について、明治三十三年に水交社に寄稿した『黒船初めて江戸湾に来るの図に題す』という記事で紹介した他、小学校から講話を依頼された際にも小学生たちに話したという。秋山家の「桃太郎」の話は下記のようなものである。
「桃太郎」即ち「百太郎」とは取りも直さず日本多数の男子と言ふことを意味せり。又「日本一の吉備団子」は就中大切の意義を含めり。其の「日本」とは日本第一に非ずして、日本一ツ即ち挙国一致の意、「吉備」は十全、「団子」は円満団結の意ありて、之を一括すれば、日本国中一ツの如く完全無欠に団結すべき心の鍵を暗示したるものにて、之れあればこそ犬猿相容れざる仲の犬と猿と雉の如きものも相提携して鬼ヶ島即ち海外に発展するを得る所以なり。又、犬、猿、雉は禽獣の性能を以て、人間の心力を表示せるものにて、犬は忠実、勇敢、即ち勇、猿は炯智、敏捷、即ち智、雉は堪忍、慈愛、即ち仁の天性を有し、又犬は地を駛留も木に登る能はず。猿は木に登るも空を飛ぶ能はざれば、犬、猿、雉は獲得長の能あり。人たるもの此六性三能を兼備すれば、如何なる難事に当るも失敗すべきにあらず。「鬼ヶ島」は海外赤髭の住む所、又その持てる宝物は、単に金銀珠玉にあらずして、有形無形、彼の長所利点と心得て可ならむ。之を要するに、此桃太郎の昔噺は、「日本多数の男子は故国に恋々たらず、海洋を越えて外国に渡り、箇々の名利に拘らず、挙国一致の団結を保ち、天賦の心力たる智、仁、勇を応用して、他外国人の長所利点を取来れ」との意味を含めるものなり。
真之は小学校で講話を行った後、その内容が筆記された印刷物に朱書きでフリガナなどを丹念に記入し、長男の大に宛てて艦上から送った。後年、大はこの昔話について述懐し、真之が海軍軍人になったのは「ただ漠然と、自然と祖父から聞かされた昔話通にその生涯を通して来た」のであり、そのことが「切っても切れない故郷の魂のつながりだったような気がする」と述べている。
母堂は貞といって旧松山藩士山口正貞氏の二女、文政10年生まれだから久敬翁とは5つ違い、明治38年6月千葉県習志野薬園台で死亡した。この母堂がまた賢夫人であった。体は久敬翁とは反対に稍々(しょうしょう)小柄な方であったが健やかだった。聡明でもあったし柔順(じゅうじゅん)でもあった。8歳ばかりのときに玉太郎という幼い弟を背負って幼い弟を背負って付近の福正寺川という川辺へ行った。松山の川には「まいまい」といって水の上をクルクル廻っている可愛いい黒い小さい虫が沢山いた。彼女は見ているばかりでは物足りなくなって水面に手を伸ばしてまいまいを取ろうとした。そのはづみに背負っていた子がスッポリ背から脱け出て川中に落ち込んだ。彼女はまいまいどころではなかった。それでも「どうかして弟を救わねばならない」そうした一心から夢中になって水中へ手を伸ばして引揚げようとした。折よくそこへ納付が来かかって、難なく弟を救い上げたので彼女はうれし泣きに泣いた事がある。もう結婚の話をぽつぽつと持込まれるようになつに時、貞子さんは「親のいいつけだったらどこへでも行きますし若いときの苦労はどんな苦労でも厭いませんが、どうか老後だけは安楽に暮らしたいと思っています」といっていたそうだ。久敬翁に嫁したのは25歳の時だった。
貞子刀自は家には姑の加井氏があり、久敬翁との間には五男一女があったり、相当多人数の家庭であったがよくそれをひきしめ注意がよく行き届いた。それらの子供たちに、貞子刀自は、男子には自ら四書五経の素読を授け、女子には炊事から裁縫、絲車で紡ぐ事まで教えた。姑にもよく仕えた。姑が「お貞さん、もうおやすみ」というまで起きて裁縫をしたり、絲車をブウンブウンと廻していた。四男の善四郎氏が生れると、「もうこの上男の子供はいらない」といっていたが眞之将軍のような大人物を生んだ。そして望み通り若い時には苦労もしたが、晩年は楽しい安らかな余生が送られた。
好古将軍が満州駐屯軍司令官時代、福島(安正)将軍が北満から帰って貞子刀自を挨拶旁々訪ねた。
そのとき福島将軍は
「秋山さんご兄弟は、お二方ともどうして揃いも揃ってあんなに偉い方になられたのでしょう。たぶんあなた方の御教育の力に依る事と思われますが、どういうご教育をなすったのですか」
と質問した。ちょっと返答に困るような質問であったが貞子刀自は事もなげに答えた。
「私のような昔気質の人間ですから、ただ普通のことをしただけで、何も変わった教育などはいたしませんでした。」
〜 伝記『秋山眞之』より 〜
お貞は「水に縁のある者や、船に乗る者は必ず紙雛を肌につけなくてはいけない」と言い、真之が海軍に入った際に自分が昔から持っていた紙雛を渡した。真之はその紙雛を妻の手製袋に入れ、戦場でも肌身離さず持ち歩いていた。真之が亡くなった後、長男の大がその守り袋を開いたときの事を次のように回顧している。
「喪が明けてから父の守り袋を開いて見た。父が幾度か手に握りしめて、内ポケットに押し入れたに違いない。紙雛はもう顔形もわからず、男雛の袖も女雛の裳腰も折れ折れであった。金泥の雲形も崩れ、松にかかった藤浪も消えていた。父の二歳の時から、ずっと家にいて、本家の叔父の所にその時もいたお熊という婆やから、河へ流すものだと聞かされて、それを流しにいった時、何だか非常に遠い道を歩いたような気がしたのを、私は今でも覚えている」
<秋山大 著 『古代発見』の「桃太郎と紙雛」より>
ある日の夕食時、9歳の真之は戯れに食事中の父の背中にもたれかかった。そのせいで久敬が持っていた汁椀から汁や豆腐が畳にこぼれ散乱した。真之が目に涙を浮かべて謝ると、お貞は
「淳、武士の魂を失ってはなりません。一粒の米、一椀の汁、その貴さが解ればそれでよいのです」
真之は両親の前に座り、謝りながらこう答えた。
「御父さん、僕が大きくなったら今日のお詫びを十分に致します。偉くなって一汁一菜百倍のご恩奉仕をします。お二人の御膳には必ず鯛を供え、香気あるお酒を徳利に満たします。もちろん、米の中にある農家の汗水も忘れません」
すると久敬は
「それはいけない。口慾は武士の魂ではない。孝は百行の本、その精神が肝心だ」
と諭し、お貞もこう言った。
「一粒、一汁の貴さは決して鯛やお酒の御馳走ではありません。汗水を知ればそれでよいのです」