○東郷平八郎
東郷は海外で鉄道を学ぶことを希望し、最初は大久保に留学の支援を依頼した。しかし、大久保に断られ、次に西郷のもとを訪れたところ、留学先では鉄道ではなく海軍の勉強をするようにと勧められた。この経緯について、「翔ぶが如く」には次のように書かれている。
「じつのところ、大久保は東郷についてはわるい印象を持っていた。あるとき薩摩の青年が群れあつまっている所で東郷が東郷がしきりに軽口をたたいては喋りちらしている光景を大久保はみた。後年、沈黙の提督として東郷の無口は世界中の人々がその特徴として知ったが、書生のころの東郷にはそういう所もあったらしい。(中略)西郷は即座に「外遊は何とかしてやろう。しかし鉄道は他にもやる者があるはずで、なにも汝がやらんでもよか。汝には海軍がよか」といったがために、後年の東郷の生涯がスタートしてしまった。」 −『征韓論』より−
東郷の兄 小倉壮九郎は、西郷が城山の洞窟から最後の突撃を敢行する直前に死出の先払いとして自刃した。留学先でこの知らせを聞いた東郷は友人に対し「二兄はじめ一門こぞって薩軍に投じたことは朝廷に対して誠に遺憾であるが、自分ももしそこにいたら恐らく同じ行動をしただろう。幸か不幸かこのように外国に来ているので、せめて自分だけでもますます海軍の技術を習得し、後日事あった際には粉骨砕身して皇恩に報いる決心だ」と毅然と言い放ったという。
○山本権兵衛
西郷が下野した当時、海軍兵学寮の学生であった山本権兵衛は西郷のあとを追って兵学寮をやめようと思い立ち、同郷の左近司隼太と共に西郷に相談に行った。しかし、西郷から「海軍を興すことが重要であり、海軍修業中の者が政治むきのことを考えて何になるか」と反対され、どうしても退校すると言い張った左近司を残して兵学寮に戻った。この経緯は『鎮西騒然』に描かれている。
佐賀県令や大久保の随員を務めた岩村高俊は、愛媛県令として「坂の上の雲」第一巻『真之』にも登場している。「翔ぶが如く」では、『浅草本願寺』に「弟・岩村の高俊はこの地方官会議の時期は愛媛県権令であったが、愛媛にあって権令みずから民権思想を鼓吹した、と、当時松山で少年期を送っていた正岡子規が感想を残している。」という記述もある。
幕末期、高俊(精一郎)は中岡慎太郎が率いていた陸援隊に属していた。中岡が坂本龍馬と暗殺されると、当時暗殺者であると噂されていた紀州藩士を陸奥宗光らとともに襲撃している。北越戦争では山道軍を率いて長岡に向かい、越後小千谷の慈眼寺に於ける河井継之助との会談では停戦案を一蹴している。この後、岩村軍と戦った長岡側には立見尚文がおり、朝日山で奇兵隊士の時山直八を討ち取っている(『征韓論』に「時山は木戸や品川と松下村塾以来の中で、戊申の北越戦争の時に戦死した。」との一文がある)。
高俊の長兄岩村通俊は佐賀の乱前には佐賀県令を、西南戦争中には鹿児島県令を務めている。後に山県内閣の農商務大臣も務めた。息子の岩村通世は東條英機内閣の司法大臣を務め、戦後A級戦犯として巣鴨プリズンに収監されている。
高俊の次兄である林有造は明治維新後に初代高知県令となるが、板垣の下野に合わせて辞職。西南戦争中には政府転覆を企て逮捕された。出獄後は板垣の自由党に属し、後に隈板内閣の逓信大臣、伊藤内閣の農商務大臣などを務めた。
○野津道貫
「典型的な野戦攻城の武将であり、その頑固さについても逸話が多いが、しかし一面理性が強靭で、感情で行動するというところはなかった」 −『情念』より−
○山県有朋
「旧藩時代は藩内の革命陣営に属していたくせに石橋をたたいて渡るような用心ぶかいたちで、たとえば故高杉晋作のような天馬空をゆくような男を兄貴株に頂いていながら、高杉の高等数学的発想にひきずられることなく、いつもそのそばで足し算の算盤しかやらず、つねに高杉に対してブレーキの役目をはたした。」 −『征韓論』より−
「山県はどの国のどの革命にも出てくる奸智派ともいうべき人物であった。革命は元来、そういう才能をも必要としている。(中略)革命期に最後まで生き残るのは、この種の実務的な出世主義者であるかもしれない。」 −『好転』より−
「山県は創造的才能はなく、従って構想者ではなかった。原型が創造してくれたものを、かれは黙々と実行してついに仕上げてしまうのである。」 −『好転』より−
「軍人としては物事を細かく指示しすぎる性格のため野戦将軍には向かない男だったが、その構想力と緻密な運営能力と、さらには物事に賭博的な期待を持たない性格から考えて、日本ではめずらしく補給の思想と能力をもったおとこであったかもしれなかった。」 −『高瀬の会戦』より−
○樺山資紀
「その気性は天性といっていいほどに戦闘的で、容貌も猛犬に似ており、いかにも軍人くさかった。ただ声が美しかったのと、文章がうまく、それも文飾よりもむしろ達意の表現力をもっていた点、存外といわねばならない。」 −『五十万両』より−
『蜂起』では、神風連の乱で児玉源太郎の書簡を受け取った人物が「第三大隊長(小川又一)」とあるが、これは誤記で正しくは「又次」である。
また、『西郷の日々』では「「さらにこの方面に、山県がそう配慮したのか、それとも偶然なのか、もっとも戦術能力の高い将校が配された。たとえばのちに参謀本部の作戦部門の伝統を作った川上操六少佐(薩)、同じく同本部で今信玄と言われた小川又次少佐(福岡県)」とあり、田村怡与造と混同されている。