ここでは、各地の神社などで見つけた日露戦争記念碑、登場人物の揮毫による石碑などを紹介していきます。
埼京線に乗っていた時、赤羽駅付近のトンネル下に鳥居と大きな石碑がいくつか立っている場所があることに気づきました。調べてみたところ、そこは赤羽八幡神社の境内で、日露戦争関連の石碑が2つあるとのことでした。ちょうど赤羽駅付近に用事があった際についでに立ち寄って撮影してきました。
2つとも、地元出身兵士の凱旋を記念して建てられたもののようです。揮毫者はよくわかりませんが、この神社の神主かもしれません。右の石碑には佐々木信綱の名前もありましたが、時間が無くてちゃんと読んでいないので、これも関係が分かっていません。
明治天皇の行幸を記念して建てられた石碑は各地に多数あるようです。写真は長野県内で見つけた物。左は上田市内にある石碑で、揮毫者は山県有朋。右は長野市立図書館の入り口付近にあるもので、揮毫者は西郷従徳(西郷従道の次男)。
大阪城の天守閣前にある石碑。明治31年に第四師団長としてこの地に赴任していた小川又次が建立したものです。豊臣秀吉が植えたと言われていた樟が戊辰戦争で失われたのを惜しんで小川が植えなおしたようです。
なお、この近くには昭和初期に建てられた旧第四師団司令部庁舎(旧大阪市立博物館)も残されています。
武田信玄と上杉謙信の一騎打ちで有名な川中島古戦場(八幡原史跡公園)に建つ、福島安正揮毫の石碑です。一騎打ちを再現した銅像に向かって左側、首塚の上に建てられています。道路側からも見える大きな石碑なのでわかりやすいと思います。
川崎市の稲毛神社境内にある正岡子規没後100年記念句碑。明治27年に川崎を訪れた時に詠んだ「六郷の 橋まで来たり 春の風」(寒山落木 巻三)を子規の直筆通りに刻んでいるとのことです。近くには芭蕉の句碑もあります。
埼玉県の吉見百穴にも子規の句碑があります。町の合併50周年記念事業の一つとして平成16年に建立されました。
松山百穴 「神の代は かくやありけん 冬籠」 (寒山落木 巻一)。
随筆「我室」に「柱に掛けたる菅笠は明治二十四年の暮、蕨の驛あたりに買い求めて忍、熊谷、川越、松山の百穴を見て帰りたる昔のなごり」とあるように、明治二十四年に三日ほど埼玉県を旅してその際に訪れたようです。
子規は「吉見百穴」ではなく「松山百穴」と書いています。実はこのすぐそばには「松山城」の跡地があります。
武州松山城の本曲輪跡。堀や土塁らしきものも残ってますが、今は全体的に草木の生い茂る山という状態になっています。上杉謙信、前田利家、真田昌幸など有名武将にも攻められた城です。武田信玄の軍がこの城を攻めた時、百穴をヒントに城に向かってトンネルを掘って攻めたという逸話もあるそうです。
浅草寺境内の五重塔近く、石碑が立ち並ぶ一角に子規の句碑があります。子規没後100年の平成13年に台東区俳句人連盟が建立。句碑の位置からは五重塔と並んで東京スカイツリーも見えます。
「観音で 雨に逢ひけり 花盛」 (寒山落木 巻四)。
従軍直前の頃に詠んだ句のようです。ただ、この句は前述した「松山百穴」のような注釈が無いため、この「観音」が浅草寺のことなのかはよく分かりません(他の資料で特定?)。
前述した「松山百穴」と同時期の旅で宿泊したときに詠んだ句。川越のシンボル「時の鐘」から徒歩3分ほどのところにあります。市制40周年記念として昭和37年に建立。
「砧うつ隣りに寒き旅寝哉」 (寒山落木 巻一)。
日露戦役碑(右側に日清戦役碑があったが撮り忘れ)
東郷平八郎揮毫の「殉職消防員の碑」
靖国神社内に建つ、東郷平八郎揮毫の石碑。
以前、小伝馬町駅の近くにある「十思公園」で、乃木希典揮毫の忠魂碑を見つけて撮影しましたが、この辺りは有名な心霊スポットということで(牢座敷や処刑場があった場所なので)掲載を保留している間に写真データがをうっかり消してしまいました。
横浜市内の八幡神社でも、東郷平八郎揮毫の「敬神」という石碑を見たことがあります。
この他にも、見つけ次第掲載していく予定です。