義経が一ノ谷を小部隊の騎兵で襲撃して成功した。(中略)また屋島襲撃も小部隊の騎兵をもってした。
その後、この戦術はほろんだ。戦国のころ織田信長が桶狭間合戦においてこれをもちいたのが唯一の例であり(以下省略)
「坂の上の雲」〜騎兵〜 より
「坂の上の雲」では、上記のように織田信長による桶狭間の奇襲も騎兵戦術によるものだと述べている。前年に書かれた「義経」にも同様の記述がある。
乗馬武士を純然たる騎兵集団として運用し、騎兵の特徴である長距離移動による奇襲という戦術思想がなかった。源氏だけでなく平家にもなく、ないどころか、その後もない。ようやく三百七十余年後に織田信長が出て桶狭間への騎兵機動による奇襲を成功させたが、わずかにその一例をのぞき、その後にもなく、維新後、近代騎兵の思想のが入ってのち知識としてようやくその運用法を知った。
「義経」〜鵯越〜 より
さらに「街道をゆく」の最終作となった「濃尾参州記」にも同様の記述がある。
余談になるが、信長がやろうとしているのは、近代戦術でいえば騎兵の集団運用による奇襲というべきものだった。
(中略)
日本史の場合、不定形ながらも騎兵の集団運用をやって何度か奇勝を得た源義経の例がある。
もう一つ加えるとすれば、これ−清州から熱田をへて桶狭間へ駆けつつある信長の目的と行動−がそうであったと言っていい。
「街道をゆく」〜濃尾参州記〜 より
しかし、その織田信長が主人公である「国盗り物語」(「坂の上の雲」の5年前に書かれた作品)では、桶狭間における信長の騎兵戦術は描かれていない。実際に信長が桶狭間で騎兵による奇襲を行ったという説は司馬作品以外ではほとんど見られないため、出典も不明である。僅かな従者と共に清洲城を出撃し熱田神宮へ向かった信長の一騎駆けを、何かの拍子に騎兵機動と勘違いしたのかもしれない。
ちなみに、桶狭間の合戦は「窪地に布陣していた今川軍を織田軍が側面から奇襲攻撃した」という説が通説であったが、近年では「桶狭間山に陣取る今川軍に対して正面攻撃をした」という説が有力である。
鎌倉時代までは騎馬武者による個人戦が合戦の中心であったが、室町時代からは徒歩兵である「足軽」を中心とした集団戦へと変化し始めた。そのため、戦国時代の「騎馬武者」は侍大将などの指揮官たちが騎乗しているだけのものであった。さらにルイス・フロイスの記録によれば彼ら騎馬武者も「戦わねばならない時には馬から下りる」とあり、騎馬武者も徒歩戦を行っていたようである。有名な「武田の騎馬隊」についても、近年の説では他の大名家と比べても騎馬武者の割合が多いというわけではなく、大河ドラマの合戦シーンのような騎馬部隊による集団突撃も無かったとの説が有力である。
また、戦国時代の馬は大河ドラマのようなサラブレッドではなく、小柄な在来種であった。そのため、重い鎧を着た騎馬武者を乗せて全力疾走することはほぼ不可能であったという。
日本在来種の道産子
仙台城址の伊達政宗像(写真左)と、上田駅前の真田幸村像(写真右)。
幸村像の馬は政宗像に比べて小柄なので、実像に近いものかもしれない。