大正3年、海軍将校数人がドイツのシーメンス社からの賄賂を受け取ったというシーメンス事件が発覚した。その直後に海軍大臣に就任した八代六郎は秋山真之を軍事局長に起用し、二人で相談して鈴木貫太郎を次官に起用することを決定した。そこで真之が電話をかけて貫太郎に依頼したのだが、「行政上のことは嫌いだから断る。君がやればいいじゃないか」と断られてしまった。真之は「僕は敵が多いからダメだ。ぜひ君にやってもらいたい」と説得を続けたが、それでも貫太郎は父の病気を理由になかなか要請に応じようとしない。しかし、その後も何度か説得して貫太郎の次官就任を実現させた。また、薩摩出身でありながら藩閥にこだわらない公正な人物といわれていた片岡七郎が高等軍法会議の判士長に任命され、彼らと共に山本権兵衛と斉藤実の責任を問うことになった。
この二人は収賄には全く関わっておらず、この件で山本内閣を攻撃した尾崎行雄は後年、「私は内閣を倒す最高資料と考え、山本内閣を攻撃した。・・・・この後、大隈内閣ができ私は司法大臣になった職責上、山本と収賄事件の関係を調査した。ところが、山本自身は全く潔白であった。内閣攻撃の時、余りにも痛烈な言行をしたことに、いささか気の毒に思っていた。しかし、山本と私はそのあとお互いに仲良くなり、悪感情を残すことがなかった」と述べている。
しかし、権兵衛は首相、斉藤は海相という立場であったために責任を免れることができず、けっきょく八代は重鎮である二人の海軍大将を予備役に編入するという人事が断行した。この措置に元帥東郷平八郎らが猛反対して圧力をかけてきたが、八代はそれ対して全く動じることなく、その後「自分は今まで東郷元帥を神のように思っていたが、元帥もやっぱり人間だった・・・・」と語ったという。
そして調査の結果、収賄軍人の中心人物とされた藤井光五郎少将は免官・禁固刑となり、その責任を感じた兄の藤井茂太は待命・予備役になったといわれている。