台湾総督在職中に亡くなった明石元二郎の遺体は、本人の遺志により台湾の日本人墓地に埋葬されました。戦後、この地は林森公園として整備され、明石の墓は別の場所に移されています。現在は墓のあった場所に鳥居のみが残されています。
仕事で台湾出張に行った際、たまたま近くを通ったので撮影してきました。台北市内の国立台湾博物館には児玉源太郎の銅像もあるとのことですが、こちらは時間が無く(そもそも観光ではなく業務出張なので)行っていません。
シンガポール出張時に飛行機の窓から撮影。大型船が複数航行していました。
シンガポール通過中のバルチック艦隊
写真は熊本城天守閣と谷干城の銅像。西南戦争時に官軍が籠城し、薩軍を迎え撃った場所です。この籠城戦では樺山資紀、児玉源太郎、川上操六、奥保鞏らが活躍しています。
乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、「乃木倉庫」と呼ばれるようになったそうです。陸軍の弾薬庫として使われていましたが、太平洋戦争中には御殿の障壁画や天井絵の大半がここに保管されて戦災を免れました。
「坂の上の雲」の登場人物達が留学したり立ち寄ったりした場所です。写真はトラファルガースクエア。日本海海戦からちょうど100年前のトラファルガー沖海戦で、ナポレオン率いるフランス・スペイン連合艦隊を破ったイギリスの英雄ネルソン提督の功績を称えてつくられた広場。ネルソンの像は戦いで失った右手を袖に隠すようにして、中央にある高さ50メートルの円柱の上に立っています。円柱の台座にあるレリーフはナポレオン軍から奪った大砲を鋳造して造ったもので、ネルソンが活躍した海戦の名場面が描かれているそうです。
日本三景のひとつ。子規は明治26年7月29日にここを訪れています。
『山やうやうに開きて海遠く広がる。舟より見る島々縦に重なり横に続き遠近弁へ難く其数も亦知り難し。一つと見し嶋の二つになり三つに分れ竪長しと思ひしも忽ちに幅狭く細く尖りたりと眺むる山の次第に円く平たく成り行くあり。我位置の移るを覚えず海の景色の活きて動くやうにぞ見ゆるなる。細くやさしく手のひらにも載せつべき嶋の波に洗はれて下痩せ上肥えたるが必ず一もと二もとの松倒まに危うく這ひ出でたる中々に大きなるにまさりたりと見る見る外の嶋に隠れ行きたるいとあかぬ心地す。船頭のいふ、松島七十余島といひならはせども西は塩竃より東は金華山に至る海上十八里を合せ算ふれば八百八島ありとぞ伝ふなる。』 (「はて知らずの記」より)
ここで子規が詠んだ俳句、短歌をいくつか列挙すると、
涼しさの こゝを扇の かなめかな
涼しさの 眼にちらつくや 千松嶋
松嶋や 雄嶋の浦の うらめぐり
めぐれどあかず 日ぞ暮れにける
夕立の 虹こしらへよ 千松嶋
松嶋の 闇を見て居る すゞみかな
ともし火の 嶋かくれ行く 涼み船
波の音の 闇もあやなし 大海原
月いづるかたに 嶋見えわたる
すゞしさのほのめく闇や千松島
心なき 月は知らじな 松嶋に
こよひはかりの 旅寝なりとも
松嶋に 扇かざして ながめけり
海は扇 松島は其絵なりけり
明治24年6月25日から7月4日までの木曽路旅行の途中で子規が訪れた場所です。この旅の様子は紀行文『かけはしの記』として翌年「日本」に掲載されました。ちょうどこの年に善光寺で火災があったため、子規が訪れたときは周囲の建物の大半が焼け落ちていました。
汽車を駆りて善光寺に詣づ。いつかの大火に寺院はおろかあたりの家居まで扨も焼けたりや焼けたり、千歳の松も限りあればや昔の縁乍(たちま)ち消えうせて木も枝もやけこがれさも物うげに立てるあはひに本堂のみ屹然として聊かも傷はざるは浪花堀江の御難をも逃れ給ひし御仏の力、末世の今に至るまで変らぬためしぞかしこしや。
あれ家や茨花さく臼の上
夏目漱石の善光寺参詣100年目となった2011年、境内に漱石の句碑が建てられました。
生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
史跡ではありませんが、明治関係の展示物があるということで番外編としての紹介です。
子供が電車好きなので何度か連れて行ったのですが、自分はあまり興味がなかったので、2回目以降はとりあえず明治関係の展示物を物色していました。明治時代の機関車、客車、切符の他、スペシャルドラマでも登場した開業当時の新橋駅のジオラマなどがあり、明治史好きの視点から見ても興味深いものもいくつかあります。3回目の見学では、2階の鉄道歴史年表のコーナーを何気なく見ている時、ジオラマの「万世橋駅」という名前に反応し、注意深く見てみたところ、何と広瀬と杉野の銅像まで再現されていました。興味のある方は探してみてください。
こちらも番外編。ある意味では日本騎兵の裏面史を知ることの出来る場所です。
日本在来種の木曽馬が飼育されている「木曽馬の里」。ここでは乗馬体験もできます。
木曽馬は体高(肩までの高さ)は135cm程度で、160~170cmのサラブレッドよりも小柄。参考までに、写真の騎乗者(当サイト管理人)の身長が175cmです。
「坂の上の雲」第一巻の「騎兵」に書かれているとおり、このような小柄な在来種は近代騎兵の乗馬用としては不適格とされました。そのため、明治期以降は輸入された西洋種との交配による品種改良が進められ、木曽馬など在来種は激減したそうです。
ちなみに、手元にある資料「馬学教程」(昭和十六年)では、サラブレッド、アングロアラブなどの西洋種は写真入りで解説もありますが、在来種については写真は無く、数行の説明がある程度という扱いでした。
日本騎兵が育成されていく過程で絶滅寸前まで追い込まれた木曽馬も、今では全国で150頭ほど飼育されているそうです。
金沢城内に残る第六旅団司令部の庁舎。明治31年に建てられたものです。
日露戦争当時の歩兵第六旅団長は一戸兵衛。旅順の一戸堡塁で激闘を繰り広げた部隊の根拠地がここというわけです。日露戦争後には松川敏胤も第六旅団長としてこの地に赴任してきています。内部の見学はできませんでしたが、学習会などの会場として利用されているそうです。
この他、本丸には日露戦争の記念碑が、城外には第九師団司令部庁舎がありましたが、時間の都合上、この時は見学していません。