触雷沈没

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海戦の経過


 機雷によって敵の旗艦ペトロパウロウスク沈めた連合艦隊であったが、五月半ばに触雷沈没や衝突事故が相次ぎ、戦艦二隻を含む八隻の艦船を失うことになる。
 5月12日に四十八号艇が触雷沈没したことに始まり、14日には宮古が触雷沈没、さらに15日には初瀬と八島を触雷で、吉野を衝突事故でそれぞれ失った。その後も機雷による爆沈が相次ぎ、連合艦隊は敵と砲火を交えることなく戦力を消耗してしまった。


戦艦八島


戦艦初瀬


逸話

 吉野沈没の際、艦長はまず御真影を端艇に奉移し、その後総員を退去させた。乗員らが乗り込んだ端艇は沈没する吉野の濁流に巻き込まれて全て水没してしまったが、御真影を奉載した一隻だけは無事だったという。


 敷島艦長であった寺垣猪三は戦後の座談会でこの触雷事故について、「この爆発が何であろうかと思って、私どもの艦の総ての者が心配した。機械水雷であろうか、潜水艇であろうか。何故また潜水艇ということをこちらが思うかと言うと、その前に露国からの情報によりますと、露国の本国には六隻の潜水艇がありますが、それを解体して東洋艦隊に汽車で送り出したということを我々は情報で得ている。そういう次第でありますから、ことによったら機械水雷ではなくて潜水艇であるかも知れぬと思った」と語っている。
 1900年には実戦で実用的な性能を発揮できるホランド型潜水艇がアメリカで開発されており、ロシアは日露戦争前に6隻輸入していたが、実戦で使用された形跡はない。なお、日露戦争中に旅順で撮影された写真の中には、ロシア軍の潜水艇と思われる物が写っている。日本も触雷事故の直後に同型艦5隻の輸入を決定したが、実際に配備されたのは終戦間近であったため実戦では使われなかった。


旅順港の海岸で見つかったロシアの潜行水雷艇