真之と大本教

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 真之の晩年については、大本教の狂信的な信者であり、手術を拒否して教団の手かざし治療で病を治そうとしたこと、真之から入信を勧められた海軍関係者が寄進によって破産して恨まれたことなど、その後半生が宗教狂いだったかのように語られることが多い。実際に真之と大本との関係はどのようなものであったか、ここでは大本の関係者の著書をもとにその詳細を紹介していく。

真之と大本との関係

 真之が大本とどのように関わったかという事については、当時の大本幹部であった浅野和三郎の著書「大本霊験秘録」(1997年/八幡書店)の『冬籠』に詳述されている。海軍機関学校の英語教師であった浅野は、心霊体験をきっかけに大本に入信。大正10年の大弾圧で教団を離れ「心霊科学研究会」を創設するまでは、教団内の有力幹部であった。
 大正5年12月14日、浅野は綾瀬の本部を訪ねてきた真之と初めて対面する。そしてこの日以降、真之の勧めで綾部を訪れる海軍関係者が急に増え始めた。ただ、真之も最初は大本を疑い、内情を探るために自分の部下数人を送り込んだのだが、結果的にはその部下も信者となってしまった。真之も徐々に大本を信仰するようになり、盲腸炎発症の際は医師の薬を捨てて大本の「鎮魂」で治そうとしたほどであった。
 しかし大正6年6月、真之と大本との関係が悪化する事態が起こる。ひとつは真之自身の失言である。22日、真之は関係者と共にある人物のもとを訪れて大本について説明をしたのだが、その際に「26日に東京で大地震が起こる」という予言をしてしまった。綾部に戻った真之は浅野に「いや、言う気も何もなかったのですがね・・・、一生懸命に大本の事をしゃべっているうちに、自然に腹から飛び出してしまったのです。抑えることも何も出来はしません。神様が言わせたのだと私は信じます」と語ったという。この失言騒動は大本全体を巻き込み、26日夜には本部では総員徹夜で有事に備えるほどであった。
 もうひとつは、自分の盲腸炎が大本の「鎮魂」によって回復したと信じた真之が、夫人の病も鎮魂するよう浅野に頼んだ事であった。浅野は鎮魂を行ったが病状は良くならず、そればかりか夫人が狂乱状態になってしまった。これを機に真之は大本に対する不信感を募らせ、遂には教団に長い批判の手紙を送りつけたほどであった。しかし、真之の大本批判は長く続かず、彼の死によってわずか半年で終わる。

浅野の真之評

 頭脳の働きの雋敏(しゅんびん)鋭利を極め、為に停滞拘泥することを嫌い、自分が善と直覚するものに向って、周囲の一切の顧慮を打棄てて勇往邁進する勇気にかけては、確に天下一品の概を有して居た。軍人でも政治家でも、官吏でも、或る地位に達すると、兎角イヤに固まって了って、心の門戸を鎖し、清新溌刺(はつらつ)の気象に乏しくなる。殊に知名の名士という奴が却って可けない。僥倖で博し得た其虚名を傷けまいとして、後生大事に納まり返る。其麼(そんな)人物には面会せぬに限る。会えば一度でがっかりして了う。所が、秋山さんには微塵も其臭味が無かった。日露戦役の殊勲者などという事を毫末も鼻の端にブラ下げず、思うて居る事は何でも言い、判らぬ事は誰に向っても聴き、キビキビした、イキイキした、何とも言えぬ美わしい、気持のよい、真直な男らしいところがあった。
 しかし一方に長所があれば、同時に又短所の伴うのは致し方がないもので、秋山さんは余りに其頭脳の鋭敏なのに任せて八人芸を演じたがる所があった。一つの仕事をして居る中に、モウ其頭の一部には他の仕事を幾つも幾つも考えて居るといった風で、精力の集中、思慮の周到、意志の堅実などというところが乏しかったようだ。
「参謀としては天下無比だが、統率の器としては什麼(どう)であろうか」
 というのが海軍部内の定評のようであったが、成程この評にも一片の真理は籠って居ると思われた。

〜 浅野和三郎「冬籠」より 〜 

真之の宗教遍歴

 真之と親交があり、自らも大本を訪れた山本英輔は、真之の宗教との関係については「宗教に入り切るには、余りに理性がありすぎる。宗教に没入してしまいたいにしても、最後の一分という所で入りきれずに悩んでいたのではないかと思う。」と述べている。
 真之は大本に対しても没入することはできず、やはりあと一歩のところで終わってしまった。浅野は下記のように、真之が様々な宗教に手を出していった「迷信遍歴」がその原因であると分析している。


 大体に於て言うと、秋山さんの信仰に対する態度には、例の秋山式特色が現れて居た。早呑み込みをするが、ややもすれば移り気が多過ぎて、其結果不徹底に流れた。或る時期には明照教に凝って見たが、一年足らずで之を見棄て、次で川面凡児氏に傾倒し、同志を集めて其講演を聴いたり何ンかしたが、之も一二年で熱がさめた。池袋の天然社にも出入したが、それも余り永くは続かなかった。兎も角も物質かぶれのした現代に一歩を先んじて、神霊方面の問題に研究の歩武を進めようとしたのは、確に卓見たるを失わなかったが、姉崎博士の所謂迷信遍歴者という部類に編入されても致し方がないところがあった。彼方を漁り、此方を漁りて帰著する所を知らない。吾々から無遠慮に之を批評すれば信仰上の前科者であった。最後の秋山さんは大本に来たが、モウ一と息という所でこれにも躓いて了った。
「何所へ行って見ても、半歳か一年経つ中に、自分の方が偉く思われて来て仕方がない」
 その日秋山さんは自分に向って斯ンなことを述べたが、秋山さんの長所も短所もよくこの一語の裡にあらわれて居たように思う。

〜 浅野和三郎「冬籠」より 〜 



 迷信遍歴者の中にありても秋山さんの如きは確に最も資質のよい、最も同情に値する優等迷信遍歴者であった。自分が無遠慮に敢て迷信の二字を冠する所以は、秋山さんの信仰が終に自己中心の人間味を脱却し得なかったと信ずるからである。
(中略)
 惜い哉秋山さんは之を自覚し過ぎて居た。ある程度迄は節を屈して神霊の前に頭をさげるが、豈夫(まさか)の時に秋山自身がムクムクと飛び出して来て、全然己れを空しうすることが出来なかった。

〜 浅野和三郎「冬籠」より 〜 




 この真之の宗教遍歴について、戦前に刊行された伝記「秋山真之」では下記のように、各種の宗教の原理を抽出してそれを総合した上で真理を把握するための宗教研究活動の一環であったと説明し、熱心に信仰するようなことはなかったと弁護するような記述になっている。


 将軍の宗教研究は最初神道より行われた。神道家川面凡児氏はその頃将軍を導いた最も良き伴侶であった。当時の両者の関係は浅からぬもので、将軍は川面氏によって神道を知り、川面氏は将軍によって世に紹介された観がある。二人が結合の結果創立された皇典研究会は、この道に相当大きな足跡を残している。
 が、将軍の宗教研究はなお神道をもって足れりとせず、更に仏教に転じてこれにも没頭した。それがため小笠原長生子や佐藤鉄太郎将軍の日蓮宗の団体天晴会に関係したこともあった。
(中略)
 将軍は右のほか基督教(キリスト教)を除いては、種々雑多の宗教に手を伸べて研究した。だから要するにその態度は一個の宗教を得てこれに帰依しようというのではなく、各種の宗教の原理を抽出してそれを総合した上、確乎不抜の真理を把握しようとしたのである。丁度将軍がその専攻の軍学で、あらゆる軍書をあさって一つの真理、戦術に帰納しようとしたのと同じである。「兵学編」にある如く、ここでも黒砂糖から白砂糖を得ようとしていたのである。
(中略)
 将軍は宗教の研究に力を入れながら、既成宗教の形骸化に対して軽蔑していた。内容−原理が主眼だったので、それがために大本教や池袋の神様の如き新しい宗教に対してこの原理探究のために相当関心を払い、あるいは進んでその中に入って行ったが、決してこれに対して絶対に帰依したのではない。結局空疎なる内容に失望してまた仏教に戻って来たのである。要するに将軍が自分一個の心に独自の宗教を大成しようとするために、大本教その他も原理把握前の一素材として接近したに過ぎなかったのである。

〜 『秋山真之』の「宗教問題の誤解」より 〜 




 川面凡児は明治〜大正期の神道家である。稜威会を創立し、日本古来の「禊(みそぎ)」を復活させた。川面の著書「古典講義録」には真之の寄稿文も収録されている。
 浅野が述べている「池袋の天然社」と伝記の「池袋の神様」とは同じものと思われる。当時、池袋や巣鴨には、ガラス玉のような物をかざして病気を治すという巫女がいたという。
 このように日本古来の神道から新興宗教まで幅広く研究対象とした真之の行動というものは、確乎たる信念をもって入信した浅野から見れば、当時の東京帝国大学の宗教学講座教授であった姉崎正治が言うような「迷信遍歴者」に過ぎなかったようだ。
 浅野はこの迷信遍歴が真之や夫人の病の原因であると述べている。浅野が真之の家を訪れた時、秋山家の神棚には大本の神と稲荷の祠が一緒に祀られていた。もともとこの家には稲荷だけが祀られていたのだが、真之が大本にも入信したため、稲荷が自己防御と復讐のために悪事を働いている、浅野はそのように断言している。そればかりか、真之に大本から離れるように忠告する友人たちの言動まで「悪霊の妨害」としている。

 クリスチャンの知人に真之の信仰態度、特に宗教遍歴についてどう思うかを聞いてみたところ、下記のように答えてくれた。

・遍歴者というより「求道者」
 実際に、心のよりどころを求めて様々な宗教を渡り歩く人はいる。そうやって入信してきた人を「節操がない」と見る人や、「前の神が妨害している」と見る人もいるが、多くの場合は様々な教えを経てやっと正しい教えに辿り着いた人だという事で好意的に受け入れる事が多い。

・合理主義者は求道者になりやすい
 参謀のように合理的な考えを持つ人は明確な答えを求める。しかし、宗教ではそういった明確な答えはなかなか出てこないため、合理主義者は更なる答えを求めて求道者になりやすいのだと思う。新興宗教の場合は明確な回答を出してくれることが多いため(極端な例で言うと、詐欺まがいの新興宗教では「この壺を買えば病気が治る」など、相談に対し明確な回答が得られる)、意外と合理的な人が没入することもある。

・神棚に二つの神様を祀ることは良くない
 大本を信仰している時、同じ神棚に稲荷を祀っていたというのは良くない。その稲荷が悪さをするというわけではなく、大本を信仰する浅野から見て節操がないと思われてしまうのも仕方がない。例えば医者が患者に薬を処方し、後日その患者の枕元に別の医師が処方した薬も一緒に置いてあるのを見たら、自分は信用されていないと気を悪くするだろう。大本を信仰する際に、稲荷をお返ししてくるのが礼儀だと思う。