書名 |
中央公論 五月号 |
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出版 |
中央公論社 |
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発行 |
昭和19年5月1日 |
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収録 |
秋山真之「日本海海戦誌」 |
太平洋戦争中の昭和19年5月に発行された中央公論には、秋山真之の遺稿とされる「日本海海戦誌」が掲載されています。2009年に毎日ワンズから出版された「天気晴朗ナレドモ波高シ」(以下、毎日ワンズ版)にもその全文が復刻掲載されています。
原本である中央公論には毎日ワンズ版では掲載されていなかった海戦図が数点掲載されており、その図に見覚えがあったので調べてみたところ、日露戦争実記第八十一号で「責任ある連合艦隊参謀某氏の講話」とされた「日本海の壮勲」と題する記事の前半部と同一であることが分かりました。しっかりと文章を読みこんで内容を覚えていれば、毎日ワンズ版を読んだ時点ですぐ気付くはずですが、流し読みしてほとんど覚えていないというのが自分の悪い癖です・・・・。新聞で見た毎日ワンズ版の広告では「幻の直筆原稿」と書かれていたのですが、幻でも何でもなく、便乗本にありがちな誇張表現(もしくは単なる調査不足)だったと分かった時には失望しました。
ちなみに、この記事については木村勲著「日本海海戦とメディア」では「参謀とは秋山のことだが、まだこの時点では東京に戻っていないので、彼から情報を得ていた小笠原が、秋山が講演したということにして発表したのものだ。」などと説明されています。しかし、中央公論入手後にあらためて読み返してみたところ、
中央公論ではその小笠原長生が序文で「畏友秋山真之将軍の真蹟」と説明している。
小笠原が朝日や実記に原稿を渡していたのであれば、中央公論の付記に「全文の掲載は今回が最初」と間違ったことが書かれることもなかったはず。
確かにこの記事が新聞や実記に載った6月に真之は東京にはいなかったが、5月30日には佐世保に帰港している。そのため、記者が直接真之から話を聞くこともできたわけで、「東京に戻っていなかった」から小笠原という説は強引過ぎる。
特に小笠原であると断定できる明確な根拠は示されておらず、著者の主張には無理がある(この書籍を紹介して頂いたMVさんの書評でも同様の指摘がされています)。
15時15分の航路図の歪曲、事実を「論」に押し込んでいるなど、小笠原の作為作業を強調しているが、海戦後わずか2〜3週間でそこまで考えて作為的な作業をするほどヒマではなかったはず。航路図もまだ状況が充分に整理されていなくて、単純に間違えただけという可能性も有りうる。
「日本海海戦とメディア」で省略されている後半部には、状況を伝え聞いた小笠原が書いたというより、当事者の真之が書いたと考える方が自然な箇所が多い。特に下記の箇所は、真之が日本海海戦後に軍人をやめて僧侶になろうとしたというエピソードとも合うものであり、「小笠原の海軍PR文」に入っている方が不自然。(2010/11/28追記)
この惨絶壮絶なる有様は、口にも言えず、画にも書かれぬ、いわゆる修羅の巷にして、思わず勇士をして無情を感じ、捨つべきは弓矢なりけりと口ずさましむるようになるを覚えました。
といった点から、”連合艦隊参謀某氏”を真之と断定する根拠も今のところ特に無いものの、小笠原が書いたというよりは真之本人の講話である可能性の方が高いと考えています。日本海海戦直後の明治38年7月頃に新聞や雑誌で「丁字戦法」というものを初めて世間に知らしめたのは真之だったということになるのかもしれません。
なお、毎日ワンズ版、「日本海海戦とメディア」ともに前半部のみの掲載となっているので、後日当サイトにて図も含めた全文の復刻を予定しています。