幕末、維新の史跡めぐり
(上野周辺)

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 「坂の上の雲」とは直接関係はないものの、明治に至るまでの幕末〜維新の期間に起きた出来事を復習するために上野近辺の史跡巡りをしてきました。



円通寺(彰義隊の墓所、寛永寺旧黒門)

 日比谷線三ノ輪駅から北へ徒歩五分ほどのところにある円通寺。ここには彰義隊の墓所と、上野公園から移築された旧寛永寺黒門があります。
 上野戦争直後、彰義隊士の遺体が賊軍扱いで放置されていたのを、円通寺の住職が処罰覚悟の上で供養したそうです。このため一時官軍に拘束されますが、後に解放され、隊士の埋葬と供養を許されたそうです。和尚は現在の西郷像後方付近(後述しますが、この場所には山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」という銘が刻まれた墓碑があります)で遺体を火葬し、円通寺境内に埋葬しました。旧寛永寺黒門は、その縁で明治40年にこの地に移設されています。

旧寛永寺黒門

 現在の黒門。上野戦争当時は、京成上野駅付近にありました。彰義隊は現在の西郷像付近(山王台)から応射していたのですが、西郷隆盛や篠原国幹が指揮する薩摩軍にこの黒門を突破された直後に瓦解したそうです。
 この後方には埋葬された彰義隊士の墓所があるほか、大鳥圭介、新門辰五郎らによる招魂碑が建てられています。石碑の転倒破損という事故があったため周囲はフェンスで囲まれていますが、扉が開いているときは石碑や門の裏側を見ることができます。
 

旧寛永寺黒門
門には当時の激戦を物語る無数の弾痕が残されています。


旧寛永寺黒門
貫通弾も多数。



旧本坊裏門

旧本坊裏門
 上野公園の国立科学博物館裏にある、寛永寺の旧本坊裏門。


旧本坊裏門
ここにも上野戦争当時の弾痕が残されています。


西郷隆盛像

上野の西郷隆盛像

 上野公園の西郷隆盛像。有名なものなので特に説明は必要ないと思いますが・・・・、

鹿児島の西郷隆盛像

 鹿児島の西郷像と比べるとやはり表情が違っています。除幕式で西郷の妻から「こんな人じゃなかった」と言われてしまった上野の西郷像は高村光雲の作。一方、西郷に風貌の似た山形の役人をモデルとし、遺族からも実像に近いと言われた鹿児島の西郷像は渋谷の「忠犬ハチ公」の作者でもある安藤照の作です。
 ちなみに、上野の西郷像の後方には彰義隊の墓碑があります(お墓なので写真は撮っていませんが、大きな石塔なのですぐにわかります)。このあたりは何度か来たことがあるのですが、知人に指摘されるまで全く気づきませんでした。西郷像の後ろに彰義隊の墓碑、この事に気づいていない人は意外と多いようですね。


寛永寺


 上野戦争で主な建築物が焼失した寛永寺は廃寺状態に追い込まれますが、明治8年に現在の位置(上野公園の北方)に復興しています。この根本中堂は、復興後に川越から移築された喜多院の本堂です。

 
境内には上野戦争の碑が建てられています。

徳川家霊廟


 寛永寺には徳川将軍家の家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定の墓所があります。写真は厳有院霊廟(綱吉の霊廟)の勅額門。当初は将軍一人一人の霊廟が建てられていましたが、吉宗の代以降はすでにある霊廟に合祀されていくようになりました。この霊廟内には篤姫墓所もあります。少し古ぼけた「綱吉の墓所」を解説する看板の横には、大河ドラマの影響によるものと思われますが真新しい「篤姫の墓所」の解説看板が増設されていました。残念ながら寛永寺内の霊廟は空襲でほとんど焼失してしまい、今はこの門を含めて僅かな遺構しか残っていません。
 ちなみに最後の将軍 徳川慶喜は、実家の水戸徳川家同様に神道信仰であったため、その墓所は将軍家霊廟とは別の谷中霊園にあります。お墓は神道式の円墳墓です。