出身地 |
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生没年 |
1853年〜1924年 |
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陸軍士官学校 |
兵学寮 |
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陸軍大学校 |
− |
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日清戦争時 |
第二軍兵站司令官 |
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日露戦争時 |
近衛後備混成旅団長 |
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最終階級 |
箱館戦争で仙台藩士と共に五稜郭に籠城し、開城後に流罪となる。釈放後の明治4年に大阪の兵学寮に入校し、教導団を経て西南戦争に従軍。その後は連隊副官、中隊長、大隊長、連隊長など部隊指揮官を務め続け、日清戦争では第二軍兵站司令官として出征した。
明治37年、近衛歩兵第四連隊長として出征し、7月に現地で近衛後備混成旅団長へ転出となる。10月、本渓湖付近の戦闘では押し寄せるロシアの大軍を相手に戦線を死守し続け、本軍の反攻に貢献した。平時は陸軍内でもあまり評価されておらず、大佐止まりで予備役編入と噂されていた梅沢であったが、沙河会戦に於ける活躍で「花の梅沢旅団」として一躍有名になった。
戦後は近衛歩兵第二旅団長、第六師団長を務め、大正4年に中将で退役となった。
明治38年5月、奉天北方の瓢起屯に於いて第一軍が陣没兵の招魂祭を催した。この時の余興では、梅沢旅団の兵士ら十数名が女装し、歌や踊りを披露した。中には女学生に扮した兵士や、藁を染めた即席のカツラをかぶっている者まで居たという。また、赤穂四十七士に扮した仮装行列も行い、この写真は当時の写真雑誌「日露戦争実記」の百八号にも掲載されている。
「日露戦争実記」の百八号に掲載された「休戦中の梅沢将軍」と題する写真。梅沢旅団が陣地内に新設した公園「何の園(なんのその)」に建てられた屋根と柱だけの「飛び出し亭(とびだしてぇ)」の前で撮影されたものであり、左端で釣竿を持っているのが梅沢、右端に立っているのが副官の荒木貞夫。この頃の梅沢は暇さえあれば釣りに出かけていたという。なお、この写真は荒木が博文館に寄贈したものである。
旅団が大嶺まで進んだ日の夕暮時、略装のまま宿舎前に立っていた梅沢の前を後備第五旅団付の輜重兵が通りかかった。荷鞍の歪みを整えようと考えた輜重兵は、薄暗い中で相手が旅団長であることに気づかず、近くに居た梅沢に「しばらく頼む」と手綱を渡した。梅沢はこの輜重兵の行為を咎めるようなこともせずに「よし」と手綱を持ち、荷鞍が整うまで待っていたという。
師団が兵站の方はかまってくれないから旅団自らが糧秣をためて第一線へ出ようということになると、軍の購買には「牛が何十円、馬車が何円」という細かい規定があって大いに弱り抜いた。ところが閣下は、
「二円や三円の細かい値段の開きが何だ、それが無くて負けたら破産だ。勝てばいいんだから高くともかまわず買いこめ」
と仰ってドンドン糧食類を買いこみ漸く第一線に出られたのです。全く糧食の持参金付で第一線に加入を許されたという格好でした。
機密書類を部下が紛失したような場合にも決してとがめられるようなことはなく、
「そんなもん構わん、焼いたと報告しておけ」
といった有様で、細かいことには極めて無頓着な態度を示されたからこそ、梅沢旅団が活発な活動をすることが出来たのです。
かくて橋頭の戦闘を初陣として本渓湖付近に迫った際突如遼陽の敵の背後に廻れとの命令に接し、同方面へ転進せんとしたが途中、平台子にある敵が非常に優勢なため再び引き返して上石橋子に到着した。しかし遼陽へ向け是が非でも先を急がねばならぬこととて、閣下もついに決意を固められ、後備歩兵第四連隊長の率いる一個大隊を同地へ残して西へ転進することとなった。ところが同連隊長が、
「一大隊では到底任務を達成されない。砲兵と自分の部下を全部残して下さい」
と盛んに主張を続けてなかなか譲らない。だが連隊長の主張に従えば旅団兵力の三分の一を割かねばならぬのでした。暫くこの事を聞いておられた閣下は、
「よろしい、任務を達成しないでもいい。ただ死んでくれ、わしも死ぬからのう」
と連隊長の主張を断固として退けた。連隊長もこれには二の句が継げなかった。そこで旅団は一大隊に砲二門を残して転進を開始した。この梅沢閣下の一言により上石橋子にに残した部隊はわずか一大隊で優勢な敵の攻撃を食い止めたのです。閣下はこの戦役中持病の喘息でお弱りになっていて、特に戦闘の時は苦しそうであったが、一言半句も薬のことなどはいわれず、なんでもないことから「戦機」を捉える点の鋭いのにはわれわれ一同は全く舌を巻いた次第です。
梅沢さんはまた部下に対しては極めて優しい。ある寒夜のこと、捕虜の訊問を行っていると、鈴木という伝騎の上等兵が物珍しさの余り戸口の隙間から内部をのぞいていた。この時閣下は支那服を着て居られて上等兵の傍を通りかかられたが、上等兵の姿を見ると肩をたたいて、
「オイ寒いから中へ入って見たらどうだ」
と仰った。振り返って見ると支那服のお爺さんとて、上等兵もまさか旅団長閣下とは思わなかったが、あとで旅団長と知って非常に恐縮したのです。そればかりではなくあの際隙見しているのを旅団長が見られて、一言もとがめられないうえに「寒いから中へ入れ」との温かい言葉をかけられたのに深く感銘し、「梅沢旅団長のためなら生命を捧げても惜しくない」との手記を残しているほどである。