ウィッテ

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ウィッテ 

出身地

ロシア

生没年

1849年〜1915年

全名

セルゲイ・ユリエヴィッチ・ヴィッテ

 日露戦争時 ポーマス会議 ロシア側全権 
 著書  ウィッテ伯回想記

 帝政ロシアの政治家。新ロシア大学の物理・数学科を首席で卒業。技師ではなく事務職として鉄道会社に就職し、鉄道拡大期には事業管理者として優れた能力を発揮した。その手腕を見込まれ、政府の初代鉄道事務管理局長に抜擢され、その数ヵ月後には交通大臣に、さらにその半年後には大蔵大臣に就任。在任中はシベリア鉄道建設や財政改革でその手腕を発揮する。
 日露開戦に反対し一時政治中枢から遠ざけられるが、戦局が悪化すると講和全権に抜擢される。ポーツマス会議では強気で交渉によって、戦勝国である日本側に賠償金を断念させるという成果をおさめている。帰国後は十月詔書を起草し国内の動乱を一時的に納めることに成功。国会開設後に初代首相となるが、ニコライ2世に疎まれ辞任し政界を去った。


人物評(ウィッテ伯回想記より)

アレキセイエフへの評価

 極東総督アレキセイエフは出征軍の総司令官に任命された。.彼にしてなお総司令官が勤まるとしたら、それは私でもできることだと言いたくなる。

リネウィッチへの評価

 学識も経綸もない、恐らく連隊長程度の地位に置いたならば、勇敢な士官であったろう。

クロパトキンへの評価

 講和全権に任命された際、クロパトキンから「出征軍はようやく努力を増したから、今後再び過失を繰り返すようなことが無ければ勝利は確実である」という手紙が送られてきたという。これに対してウィッテは、「この人は前にも『勝算確実だ』とか『奉天から一歩も引かない』とか『旅順を敵手に委するようなことはない』と壮語しながら、敗北に敗北(それもいかにも見苦しい)を重ねて平気でいる。この点は彼の『偉い』ところである」と酷評している。

ポーツマス会議の回想

講和会議の行動基調

一、どんなことがあっても、講和を望むような態度を見せないこと。
二、自分は大国ロシアの全権代表である、という顔をして大きく構えること。
   大国ロシアは最初からこんな戦争は重視していないから、
   その勝敗についても少しも痛痒を感じない態度を示し相手を威圧する。

 これが講和会議に臨むウィッテの行動基調であった。とは言いながら、日本側との最初の会見については「何といっても非常に苦しいものであった。大国ロシアの代表でありながら同時に敗戦国の代表であるのだ。それを表面上どこまでも戦敗の事実を無視する態度で、談判の上で少しでも有利な地位を占めようとするのだから、精神的には一層深い苦痛を感じた」と回顧している。


戦勝者はいない

 小村寿太郎から「あなたはいつも戦勝者のような口調で物を言う」と指摘されたウィッテは、「今回の場合、戦勝者はない。従って敗戦者もあり得る道理もない」と言い返した。


アメリカでの行動方針

 ウィッテは極端に民主的であるアメリカ人を味方にするために、態度を簡単自由にして少しも尊大ぶる態度を示さないように注意していたという。
 また、アメリカではユダヤ人と新聞の勢力が強大なことを打算して、少しでも彼等の不快を招くような挙動の無いように細心の注意を払っていた。


全権の愛想の良し悪し


 アメリカ滞在中は「ウィッテ見学」という気分で面会を求める人が多く苦労したが、いかなる場合でも愛嬌を惜しまなかった。また、毎日送迎する汽車から降りす際にも運転手と握手してその労を謝することにしていたという。こうした行動が人心に与える影響も著しく、非常に効果があった。実際にこの行為をした翌日の新聞では一斉にこれを書き立て、ロシア全権の平民ぶりを称賛したほどであった。しかしウィッテ自身は「急に役者のような所作で馴れ馴れしい態度をとることは自分ながら愚かしくもあり、苦しくもあった」と後に回顧している。
 一方、ウィッテは日本全権について、「その秘密主義と陰気な態度が、ほとんど正反対に開放的なアメリカの人気に投じなかった」と分析している(また、「日本一行の地味な態度は、アメリカ人の人気を我々に接近させた」とも述べている)。ウィッテはこの欠点を利用し、日本側の反対を予見したうえで「交渉の経緯を全て新聞に公開しよう」と提案してみた。日本全権はこれに同意しなかったため、その後「会議記録が要領を得ないのは日本の検閲のせいだ」という評判がたってしまった(実際は両国ともに検閲したうえで新聞に公表していた)。


ユダヤ人を味方につける

 ニューヨークにはロシアを追われたユダヤ人も居り、ウィッテ暗殺の噂もあった。しかし、ウィッテはニューヨーク到着後すぐ、周囲の忠告を無視して随員一名だけを連れてユダヤ人街へ行き、そこに住むユダヤ人たちにロシア語で語りかけて歩いた。この態度でウィッテが反ユダヤ主義でないことを知った人々は、次第にロシアを支援するようになったという。


新聞も味方につける

 ウィッテは新聞記者やその経営者の同情を得ることに努めた。後に回顧録で「新聞が政界や一般社会で大勢力を持つのは近年どの国でも同じだが、アメリカは特にその傾向が著しい。彼らの同情を得ることは国民一般の同情を得るに等しい」と述べている。


イメージ戦略

 ウィッテはまた、ロシアとアメリカ同種の民族、国家であるということを強調することで、アメリカ国民の支持を得ようとしていた。回顧録では次のように述べている。
 「アメリカ人が私の内に自分と同種の人間を見出し、独裁君主の代表という彼らには異様の感を与える名義を帯びていながら、政治家として、社会人として、アメリカ人と少しも異なるところがない人間であることを知らしめ、彼らの親しみを受けるようにした」。
 「ロシアは国民性や民族精神、宗教、文化などでアメリカと同一である。そのロシアが、国民性や民族精神、宗教、文化などを異にする日本人との間に行った戦争を、アメリカ人の判断で解決するという考えをアメリカに持たせるようにした」。