病状について

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 結核と診断された明治22年から子規は病と闘い続け、自らの病状を随筆にも記していった。子規の病がどのように推移し、その状況を彼がどのように感じていたのか、ここでは該当箇所を各随筆集から抜粋し、時系列順に並べて紹介していく。



 病み初めたるは十一月の半ばになん。にはかの事なれば来合わせたる人々を驚かしぬ。今まで何事のありとも知らざりし小春の空は鳶(とび)舞ひ雀鳴きつるに、昼過ぐる頃より黒雲少しづつ飛び行くと見しが、夕暮れには忽ち陰険なる兆候をあらはし、夜に入れば雷鳴り電(いなずま)閃き雨灑(そそ)ぎ霰走り日頽(くず)れ月砕け天柱傾き地皮裂け大海立ち熱泉湧き虎 風を吹き竜 火を吐く。夜半音途絶えて星斗天にあり。それより後ち日毎夜毎折々には忽ち風、忽ち雨、忽ち獅子吼え、忽ち魑魅(ちみ)泣く。人々代る代るおとづれとぶらひたんまひし中にも碧虚二子は常に枕をはなれず看護もねもごろなり。去年と言ひこたびと言ひ二子の恩を受くること多し。我が命二人の手に繋(かか)りて在するものの如し。わが病める時二子傍にあれば苦も苦しからず、死もまた頼むところあり。

(松蘿玉液 明治二十九年十二月三十日) 

  魑魅 : 山林の精気から生じるといわれる化け物。
  碧虚二子:河東碧梧桐と高浜虚子


 この日、宮本医来診のとき包帯を除いて新しき口及び背中尻の様子を示す。暫くぶりのことなり。医の驚きと話とを余所(よそ)ながら聞いて余も驚く。病勢思ひの外に進み居るらし。

 (仰臥漫録 明治三十四年十月九日)



 この頃の容体及び毎日の例
 病気は表面にさしたる変動はないが次第に体が衰へて行くことは争はれぬ。膿の出る口は次第にふえる、寝返りは次第にむつかしくなる、衰弱のため何もするのがいやでただぼんやりと寝ているやうなことが多い。
 腸骨の側に新に膿の口が出来てその近辺が痛む、これが寝返りを困難にする大原因になって居る。右へ向くも左へ向くも仰向けになるもいづれにしてもこの痛所を刺激する、咳をしてもここにひびき泣いてもここにひびく。
 包帯は毎日一度取換へる。これは律の役なり。尻のさき最痛く僅かに綿を以て拭ふすらなほ疼痛
(とうつう)を感ずる。背部にも痛き箇所がある。それ故包帯取換は余にとっても律に取っても毎日の一大難事である。この際に便通ある例で、都合四十分乃至一時間を要する。(中略)
 食事は相変わらず唯一の楽
(たのしみ)であるがもう思ふやうには食はれぬ。食ふとすぐ腸胃が変な運動を起こして少しは痛む。食ふた者は少しも消化せずに肛門へ出る。さしみは醤油をべたべたとつけてそれを飯または粥の上にかぶせて食ふ。佃煮も飯または粥の上に少しづつ置いて食ふ。歯は右の方にて噛む。左の方は痛くて噛めぬ。

  (仰臥漫録 明治三十四年十月二十六日)



 余が病気保養のために須磨に居る時、「この上になほ憂き事の積もれかし限りある身の力ためさん」という誰やらの歌を手紙などに書いて独りあきらめて居ったのは善かったが、今日から見るとそれは誠に病気の入口に過ぎないので、昨年来の苦みは言語道断殆ど予想の外であった。それが続いて今年もようよう五月という月に這入って来た時に、五月という月は君が病気のため厄月ではないかとある友人に驚かされたけれど、否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年であるから、などとむしろ自分では気にかけないで居た。ところが五月に這入ってから頭の具合が相変らず善くないといふ位で毎日諸氏のかはるがはるの介抱に多少の苦しみは紛らしとったが、五月七日といふ日に朝からの苦痛で頭が悪いのかどうだか知らぬが、とにかく今までに例の無い事と思ふた。八日には少し善くて、その後また天気具合と共に少しは持ち合ふていたが十三日という日に未曾有の大苦痛を現じ、心臓の鼓動が始まって呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追っ附かず、どうやらかうやらその日は切抜けて十四日もまず無事、ただしかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、十五日の朝三十四度七分という体温は一向に上らず、それによりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず、もはや自分もあきらめて、その時あたかも牡丹の花生けの傍に置いてあった石膏の肖像を取ってその裏に「自題(みずからだいす)。土一塊牡丹生けたるその下に。年月日」と自ら書きつけ、もしこのままに眠ったらこれが絶筆であるといはぬばかりの振舞、それも片腹痛く、午後は次第次第に苦しさを忘れ、今日はあたかも根岸の祭礼日なりと思い出したるを幸に、朝の景色に打ってかえて、豆腐のご馳走に祝の盃を挙げたのは近頃不覚を取ったわけであるが、しかしそれもまずまず目出度いとして置いて、さて五月もまだこれから十五日あると思ふと、どう暮してよいやらさッぱりわからぬ。

  (病牀六尺 明治三十五年五月十八日)


※「この上になほ憂き事の積もれかし限りある身の力ためさん」という歌は山陰地方の戦国大名尼子家の家臣であった 山中鹿之介が詠んだと言われている(実際は「憂き事の なほこの上に 〜」である)。鹿之介は尼子家滅亡の時に毛利家に捕らわれたが、自害することなく隙を見て脱走。その後も主家再興のために戦い続け、織田家臣であった羽柴秀吉の中国攻略戦が始まるとその先鋒として上月城に入った。しかし、織田軍が本願寺攻めで兵を引いたために孤立し上月城は落城。鹿之介は降伏して捕虜となり再び機会を待つことにしたが、これを生かしておくと危険と見た吉川元春によって護送中に討ち取られた。
 鹿之介が主家再興のために「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は講談などでよく知られている。子規は苦難に耐えて戦い続けた鹿之介に自らの姿を重ね合わせたのかもしれない。
 なお、この歌は新渡戸稲造の「武士道」第十二章にも引用されている。『真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった。一人の典型的なる武士は、一戦また一戦に敗れ、(中略)弓折れ、矢尽きし時にも、死をもって卑怯と考え、キリスト教殉教者に近き忍耐をもって、 憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力試さん と吟じて己を励ました。かくして武士道の教うるところはこれであった。忍耐と正しき良心とをもってすべての災禍困難に抗し、かつこれに耐えよ。(中略)サー・トマス・ブラウンの奇書「医道宗教」の中に、我が武士道が繰り返し教えたるところ同様の一節がある「死を軽んずるは勇気の行為である、しかしながら生が死よりもなお怖ろしき場合は、あえて生くることこそ真の勇気である」』




 病気になってから既に七年にもなるが、初めのうちはさほど苦しいとも思はなかった。肉体的に苦痛を感ずる事は病気の勢ひによって時々起るが、それは苦痛の薄らぐと共に忘れたやうになってしまふて、何も跡をとどめない。精神的に煩悶して気違いにでもなりたく思ふようになったのは、去年からの事である。さうなるといよいよ本当の常病人になって、朝から晩まで誰か傍におって看護をせねば暮せぬ事になった。何も仕事などは出来なくなって、ただひた苦みに苦しんでいると、それから種々な問題が沸いて来る。死生の問題は大問題ではあるが、それはごく単純な事であるので、いったんあきらめてしまへば直に解決されてしまふ。

  (病牀六尺 明治三十五年七月十六日)


※この頃から「あきらめる」という言葉が文中に出始める。(別ページ「あきらめ」を参照)


 「病牀六尺」が百に満ちた。一日に一つとすれば百日過ぎたわけで、百日の日月は極めて短かいものに相違ないが、それが予にとっては十年も過ぎたやうな感じがするのである。外の人にはないことであろうが、予のする事はこの頃では少し時間を要するものを思ひつくと、これがいつまでつづくであろうかという事が初めから気になる。些細な話であるが、「病牀六尺」を書いて、それを新聞杜へ毎日送るのに状袋に入れて送るその状袋の上書をかくのが面倒なので、新聞杜に頼んで状袋に活字で刷ってもらふた。そのこれを頼む時でさえ病人としては余り先きの長い事をやるというて笑はれはすまいかとひそかに心配しておった位であるのに、社の方では何と思ふたか、百枚注文した状袋を三百枚刷ってくれた。三百枚という大数には驚いた。毎日一枚ずつ書くとして十ヶ月分の状袋である。十ヶ月先きのことはどうなるか甚だ覚束ないものであるのにとひそかに心配して居った。それが思いの外五六月頃よりは容体もよくなって、ついに百枚の状袋を費したという事は予にとってはむしろ意外のことで、この百日という長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであらう。しかしあとにまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであろうか。

  (病牀六尺 明治三十五年八月二十日)


※子規が亡くなるのはこの一ヶ月後のことである。「病牀六尺」の記事は死の二日前、第百二十七まで続いた。