病状の悪化に伴い、失意失望の日々が続いた子規。時には自殺願望とも取れる文章を書き残している。しかし死の半年ほど前から心境に変化があらわれ「あきらめる」という言葉を使い始める。自分の運命を受け入れるとともに、残り少ない人生を前向きに楽しみながら過ごそうとしていた
人の希望は初め漠然として大きく後漸(ようや)く小さく確実になるならひなり。我病牀(びょうしょう)における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行(ある)き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望(のぞみ)かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥(ふ)し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早(もはや)我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦(しゃか)はこれを涅槃(ねはん)といひ耶蘇(ヤソ)はこれを救ひとやいふらん。
(墨汁一滴 明治三十四年一月三十一日)
この四ヶ月後の日誌には、『試に我枕もとに若干の毒薬を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。』という一文が記されている。 |
母は黙つて枕元に坐つて居られる 余はにわかに精神が変になつて来た「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦しがつて少し煩悶を始める。いよいよ例の如くなるか知らんと思ふと益(ますます)乱れ心地になりかけたから「たまらんたまらんどうしやうどうしやう」と連呼すると母は「しかたがない」と静かな言葉、(中略)
さあ静かになった。この家には余一人となったのである。余は左向きに寝たまま前の硯箱を見ると、四、五本の禿(ちび)筆一本の験温器の外に二寸ばかりの鈍い小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐(きり)とはしかも筆の上にあらわれて居る。さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起こって来た。(中略)しかし鈍刀や錐ではまさかに死ねぬ。次の間へ行けば剃刀があることは分かって居る。その剃刀さへあれば咽喉(のど)を掻く位はわけないが、悲しいことには今は匍匐(はらば)ふことも出来ぬ。已(や)むなくんばこの小刀でものど笛を切断出来ぬことはあるまい。錐で心臓に穴をあけても死ぬるには違ひないが、長く苦しんでは困るから穴を三つか四つあけたら直ぐに死ぬるであらうかと、色々に考えて見るが実は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出来ぬ。死は恐ろしくはないのであるが、苦しみが恐ろしいのだ。病苦でさへ堪へ切れぬこの上、死にそこなふてはと思ふのが恐ろしい。
(仰臥漫録 明治三十四年十月十三日)
※子規はこの文章の後に錐と小刀の絵を描き、そこに「古白曰来」と書き入れた。古白とは明治二十八年に自殺した従兄弟の藤野古白の事である。この時、あの世から自分を呼ぶ古白の声が子規の脳裏を掠めたのかもしれない。また、ロンドン留学中の夏目漱石に宛てた手紙の中でもこの「古白曰来」について記されている。 『僕ハモーダメニナッテシマッタ。毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ。(中略) 僕ハ迚(とて)モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。』 |
余は今まで禅宗の悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
(病牀六尺 明治三十五年六月二日)
余に在っては精神の煩悶といふのも、生死出離の大問題ではない、病気が身体を衰弱せしめたためであるか、脊髄系を侵されているためであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を来すのであって、苦しい時には、何ともかとも致しやうのないわけである。しかし生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段はもとより「現状の進行に任せる」より外は無いのである。号叫し煩悶して死に至るより外に仕方のないのである。たとえ他人の苦が八分で自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一様にあきらめるといふより外にあきらめ方はない。この十分の苦が更に進んで十二分の苦痛を受くるやうになったとしてもやはりあきらめるより外はないのである。けれどもそれが肉体の苦である上は、程度の軽い時はたとえあきらめる事が出来ないでも、なぐさめる手段がない事もない。程度の進んだ苦に至っては、ただになぐさめる事の出来ないのみならず、あきらめていてもなおあきらめがつかぬような気がする。けだしそれはやはりあきらめのつかぬのであろう。笑え。笑え。健康なる人は笑え。病気を知らぬ人は笑え。幸福なる人は笑え。達者な両脚を持ちながら車に乗るような人は笑え。自分の後ろから巡査のついて来るのを知らず路に落ちている財布をクスネンとするような人は笑え。年が年中昼も夜も寐床に横たはって、三尺の盆栽さえ常に目より上に見上て楽んで居るような自分ですら、麻酔剤のお陰で多少の苦痛を減じている時は、煩悶しておった時の自分を笑うてやりたくなる。実に病人は愚なものである。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。笑ふ時の余も、笑はるる時の余も同一の人間であるといふ事を知ったならば、余が煩悶を笑ふ所の人も、一朝地をかふれば皆余に笑はるるの人たるを免れないだろう。咄々(とつとつ)大笑。
(病牀六尺 明治三十五年六月二十三日)
ある人からあきらめるといふことについて質問が来た。死生の問題などはあきらめてしまへばそれでよいといふた事と、またかつて兆民居士を評して、あきらめる事を知って居るが、あきらめるより以上のことを知らぬと言った事と撞着(どうちゃく)して居るようだが、どういふものかという質問である。それは比喩をもって説明するならば、ここに一人の子供がある。その子供に、養ひのために親が灸を据えてやるといふ。その場合に当って子供は灸を据えるのはいやじゃといふので、泣いたり逃げたりするのは、あきらめのつかんのである。もしまたその子供が到底逃げるにも逃げられぬ場合だと思ふて、親の命ずるままにおとなしく灸を据えてもらふ。これはすでにあきらめたのである。しかしながら、その子供が灸の痛さに堪えかねて灸を据える間は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、それはわずかにあきらめたのみであって、あきらめるより以上の事は出来んのである。もしまたその子供が親の命ずるままにおとなしく灸を据えさせるばかりでなく、灸を据える間も何か書物でも見るとか自分でいたずら書きでもして居るとか、そういふ事をやっておって、灸の方を少しも苦にしないといふのは、あきらめるより以上の事をやって居るのである。兆民居士が一年有半を著した所などは死生の問題についてはあきらめがついておったように見えるが、あきらめがついた上で夫(か)の天命を楽んでといふような楽むという域には至らなかったかと思ふ。居士が病気になって後しきりに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をしているところなどはややわかりかけたやうであるが、まだ十分にわからぬ処がある。居士をして二三年も病気の境涯にあらしめたならば今少しは楽しみの境涯にはひる事が出来たかも知らぬ。病気の境涯に処しては、病気を楽むということにならなければ生きていても何の面白味もない。
(病牀六尺 明治三十五年七月二十六日)