日本海の大海戦は、これに参加したる対抗両艦隊の兵力が多大なりしと、その勝敗の差隔が著しく懸絶して、露国艦隊の、殆ど全滅したるに対し我が日本艦隊の損害が過少なりし点より見て、空前の一大海戦であるが、またその戦場が頗る広大なりしと、戦闘時間の甚だ長かりし点に就いても、古今未曾有と謂うべきである。実にこの海戦は、当年五月二十七日拂暁の頃、哨艦信濃丸が二○三地点に敵艦隊を発見したるに始まり、対馬海峡より欝陵島(松島)附近に至る約三百哩の大海面に於て、翌二十八日の黄昏過ぎまで二日間に亘り、昼夜連続、各方面に戦われたるもので、ここに掲げたる海戦全図に示す如く、その間彼我艦艇の砲火を交えたる合戦は、大小十ヶ所に散在して居る。(第一図)今その戦跡をこの海戦図に拠り辿りて見ると、大要左の通りである。
日時 | 合戦 | 対勢 | 戦果 |
二十七日 午後 |
第一合戦 | 彼我主力艦隊の大決戦 | 敵艦七隻撃沈 内仮装巡洋艦三隻 |
同日 夜 |
第二合戦 | 我全駆逐隊水雷艇隊の敵の敗残艦隊に対する強襲 | 敵艦四隻撃沈 我水雷艇三隻沈没 |
二十八日 朝 |
第三合戦 | 我軍艦千歳の敵駆逐艦に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻撃沈 |
同日 午前 |
第四合戦 | 我主力艦隊の敵敗残艦隊に対する包囲攻撃 | 敵艦四隻捕獲 |
同日 午前 |
第五合戦 | 我軍艦「音羽」「新高」の敵艦「スピエトラーナ」に対する追撃 | 敵艦一隻撃沈 |
同日 午前 |
第六合戦 | 我軍艦「新高」「叢雲」の敵駆逐艦に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻撃沈 |
同日 午前 |
第七合戦 | 我駆逐艦「不知火」及び「第三十六号」艇の敵駆逐艦に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻撃沈 |
同日 午前 |
第八合戦 | 我軍艦「磐手」「八雲」の敵艦「ウシヤコツフ」に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻撃沈 |
同日 午後 |
第九合戦 | 我駆逐艦「漣」「陽炎」の敵駆逐艦に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻捕獲 敵将生擒 |
同日 夕 |
第十合戦 | 我第四艦隊及び第二駆逐艦隊の敵艦「ドンスコイ」に対する追撃 | 敵艦一隻撃沈 |
この一大海戦を組成せる十合戦の要領は、まずこんなものであるが、なお各合戦を比較して、その対勢と戦果を計査して見ると、頗る興味があると考える。この海戦、大は大なりと雖も、彼我対当の決戦とも認むべき合戦は、ただ単に二十七日午後の第一合戦のみで、第二合戦より第十合戦までの九合戦は、何れも我が優勢を以て、敵の劣勢に当り、大抵その勝敗も、瞬く間に決して居る。しかもその戦果に就て見ると、第一合戦では、僅に敵艦七隻(内仮装巡洋艦三隻を含む)を撃沈し得たのみで、残余の敵艦十隻撃沈、五隻捕獲の大仕事は、皆第二合戦以後に於ける敗残の敵艦隊に対する追撃戦を以て仕遂げられたのである。これを以って見ると、戦勝の正味の結果は、花々しき決戦の時よりは、決戦終りたる後の追撃戦にて捕獲せらるることが分ると同時に、矢張り数字上の優勢を以て敵に対すれば、容易く敵を圧倒することが出来るということも、証明せらるるかと思う。然しながら、この当初の第一合戦に於ける対等の大決戦に、当日の勝敗を決し得たことが、この海戦の大眼目とも謂うべきもので、もしこの肝心なる決戦に勝を制することが出来なかったならば、第二合戦以後の大戦果も挙がらぬのみか、却って苦戦悪闘を続行して、我が損失を増大する悪果を生じたのである。故に海戦に於ては、初めより優勢を以て敵に対するか、あるいは当初の決戦に勝を制するということが至極肝要である。
日本海の大海戦に於ける、我が軍の大捷は前述の如く、実にその第一合戦の決勝より生み出されたものである。然らばこの第一合戦その物は、如何に戦われて、如何に勝敗が決したかを討究するのも、また趣味あることと思われる。この第一合戦は、五月二十七日午後一時五十五分、我が連合艦隊司令長官東郷大将が、かの記念すべき「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」の訓令信号を掲げ、我が主力たる第一及び第二戦隊を率いて、敵前に邁進された時に初まり、それより連続攻撃を続行し、日没に至りてやみたる約五時間の合戦で、その戦場は対馬海峡沖の島の北方である。さりながら、この第一合戦も、またその過半は追撃戦で、その決戦の決戦たりし正味の部分は、僅かに当初の約三十分間に過ぎない。日本海海戦の勝敗が僅々三十分間で決着したと云えば、或いは驚く人があるかも知れぬが、それが真正の事実に相違ないので、東郷大将の海戦戦報にも、明白にその事が記載してある。今この戦報を取出して、その初めの方を見ると、左の一節がある。
敵の先頭部隊は我が第一戦隊の圧迫を受けてややその右舷に転舵し、午後二時八分彼より砲火を開始せしかば、我は暫くこれに耐えて、射距離六千米突に入るに及び、猛烈に敵の両先頭艦に集弾せり。敵はこれがため、益々東南に撃圧せらるるものの如く、その左右両列共に漸次東方に変針し、自然に不規則なる単縦陣を形成して、我と併航の姿勢を執り、その左翼列の先頭艦たる「オスラービヤ」の如きは、須叟にして撃破せられ、大火災を起して戦列より脱せり。この時に当り、第二戦隊も既にことごとく第一戦隊の後方に列し、我が全線の掩撃砲火は射距離の短縮と共に益々顕著なる効果を呈し、敵の旗艦「クニャージ・スウオーロフ」、二番艦「アレクサンドル三世」も、大火災に罹りて戦列を離れ、敵の陣形いよいよ乱れ、後続の諸艦また火災に罹れるもの多く、その騰煙西風にたなびきて、忽ち海上一面を蔽い、濛気と共に全く敵影を包み、第一戦隊の如きは、為に一時射撃を中止せるの状況なりし。また我が軍に於ても各艦多少の損害を被り、「浅間」の如きは後部水線に近く三弾を受けて舵機を損じ、且つ浸水甚だしく、一時止むを得ず列外に落伍せしが、幾くもなく応急修理して、再び戦列に入れり。これ午後二時四十五分に於ける彼我主力の戦況にして、勝敗は既にこの間に決せり。
この戦報の通りに、敵の艦隊が、初めて火蓋を切って砲撃したのが、午後二時八分で、我が第一戦隊が、暫くこれに耐えて、応戦したのが三、四分後れて、二時十一分頃であったと記憶して居る。この三、四分に飛んで来た敵弾の数は、少くとも三百発以上で、それが皆我が先頭の旗艦「三笠」に集中されたから、「三笠」は未だ一弾をも打出さぬ内に、多少の損害も死傷もあったのだが、幸に距離が遠かったため、大怪我はなかったのである。これより後の戦況は、口筆を弄するよりも、左に掲げたる第一合戦の二対勢図を見るのが、最も早く分かる。即ち一は午後二時十二分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾したる刹那で、また他の一つは午後二時四十五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分った時の対勢である。その間実に実に三十五分で、正味の処は三十分に過ぎない。しかし未だこの時には、敵艦隊一隻も沈没して居らぬのだ(第二図、第三図参照)。
この対戦に於ける彼我主力の艦数は、双方共に十二隻であって、我は戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻、彼は戦艦八隻、装甲巡洋艦一隻と装甲海防艦三隻より成り、その勢力は、ほぼ対等であったが、ただやや我が軍の戦術と砲術が優れて居ったために、この決勝をかち得たので、皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦によって定まったのである。しかし戦術とか、砲術とか、あるいは勇気とか、胆力とか云うものの、矢張り形而下の数字的勢力は争はれぬもので、もしこの対戦に於て、我が海軍が十二隻の主力戦隊を戦線に出すことが出来なかったなれば、この勝敗は未だ孰れとも云えないのである。実にこの戦線に参加したる我が装甲巡洋艦「日進」「春日」の如きは、開戦間際に伊太利より購入せられ、開戦後に我が国に到着したのであるが、もしこの二艦が無かったなればと思うと、吾人は今日もなお戦慄せざるを得ない。独り「日進」「春日」のみならず、「三笠」にあれ「敷島」「朝日」「富士」にあれ、あるいは「出雲」「磐手」「浅間」「常磐」の如き、何れも我が海軍の当局が、多年の惨憺たる経営に依りて製艦されたもので、しかもこれを用うるは、主として僅々三十分の決戦であった。吾人が十年一日の如く武術を攻究練磨しつつあるのも、またこの三十分間の御用に立つためである。さればこそ、決戦は僅か三十分であるが、これに至らしむるには、十年の戦備を要するので、即ち取りも直さず、連綿十年の戦争である。吾人は素より至尊の御威徳が、直接間接に戦勝の大主因を成し、皇軍には常に天佑神助あるを確信するものであるが、さりとて、吾々臣民が、人事を尽さずして、神霊の加護を仰ぎ得らるべきではないと考える。
過去の大海戦は、斯くして皇軍の大捷に帰したが、未来の海戦は、如何なる結果を呈するであろうか。今や「三笠」「敷島」の如き当時の戦艦は、既に全盛を過ぎて、旧式と化し去り、所謂「ドレッドノート」級、もしくは超弩級ならざれば軍艦にあらずと謂う時代となり、我が海軍には現在「ド」型として、「河内」「摂津」の二隻、準「ド」型とも算うべき「安芸」「薩摩」の二艦あるのみである。これに在来の旧式戦艦を加えて、兎に角にも、戦列の第一線を作りたいのだが、却って速力などに差異があって不利益である。吾人は勿論、火縄銃でも竹槍でも与えられたる武器を以て極力奮闘し、ただ斃れて後己むのが本分であるから、敢て彼れ是れと道具選みをする訳ではないが、過去の経験より将来を忖度すると、如何にしても、皇国の興廃が気に懸って、安んぜざる処がある。日本海海戦の決戦は三十分間で片が付いたが、武器の進歩したる未来の海戦は、十五分間で勝敗が決するであろう。(大正二年五月 雑誌「海軍」掲載)