秋山真之の逸話

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  アメリカ留学中のある日、真之は大使館外交官補の阪田重次郎と共に、知り合いのアメリカ人の家へ遊びに行った。その時、真之はドアのベルを押してから急に思いついたように近くの植え込みへ行き、そこで立小便を始めた。阪田は相手が玄関から出てきたらビックリするのではないかとハラハラしていた。やっと終わった真之が何食わぬ顔で入り口に向かうと、ちょうどこの家の婦人がにこやかに顔を出した。「 Hello! How are you? 」そう言うと真之は何も知らない婦人と小便をしたばかりの手でしっかりと握手をした。阪田は呆れながらその様子を眺めていたという。


 大学教官時代「運動をしなけりゃダメだ」と言って、昼食後には学生たちとテニスをしていた。そして一時間ほどテニスをして汗をかくと、校長が来て見ている目の前でもズボンとシャツを脱ぎ、平気で汗を拭いていた。


 真之は手先も器用であった。兵学校では食事の時間が決められていたので、早く食事を済ませても時間まで食堂から出ることができない。そこで真之はパン屑を粘土代わりにしてナポレオン、ビスマルク、秀吉などの頭像を作っていた。


明治36年頃、陸海軍の若手将校が集まり座談会が開かれた。その席上で「褌論」を披露した真之であったが、旧藩主の久松定謨から「とても面白く拝聴しましたが、我々が普段身につけている越中褌は締りが良くないのですが、これはいかがなものでしょうか?」と質問されて答えに窮し、苦笑いするしかなかったという。


 日露開戦直後、真之のもとに母からの手紙が届いた。そこには「もし後顧の憂いがあり、足手まといの家族のために出征軍人としての覚悟が鈍るようなことがあるなら、自分にも考えがある」、つまり、自分が足手まといになるようなら自決する覚悟もあるというような悲壮な決心が示されていた。読み終えた真之はこの手紙と母の写真を封筒に入れ、その表に「大慈大悲」と書いた。さらに「この戦役で一家全滅しても怨みなし」というようなことが書かれた好古の名刺 (好古は筆無精なので、ハガキ代わりに名刺に走り書きをして相手に渡すことが多かった) もその封筒に入れ、戦時中はそれを軍服のポケットに入れてお守り代わりにしていた。


 真之の舅 稲生真履は帝国博物館の学芸員であり、書画刀剣鑑定の権威でもあった。彼の影響で刀剣に興味を持つようになった真之は、わずか数年で鑑定までできるようになった。ある日、真之は呉軍港の古物商で見つけた無銘の刀が一文字作であると確信し、それを買い取って稲生に鑑定を依頼した。その結果、一文字の祖則宗の名刀であるということが分かり、稲生も真之の鑑定眼に驚いたという。
 稲生が伯耆國真守、大和千手院という二本の名刀を古物商で見つけて買い取ろうとしたことがあった。本物であると鑑定した稲生であったが、まだ少し不安があったので真之にその刀を見せて相談した。その二刀が本物であると確信した真之は急にその刀が欲しくなり「これは真守に間違いありません。ご存じの通り私の名前は真之です。真之を守るのが真守、ということでこの刀は私が頂きたい」と巧い理屈をつけて買い取ろうとした。しかし、稲生も負けてはいない。「それもそうだ。だが、真之を守るのが真守なら、真履を守るのも真守だ。ご存じの通りワシの名前は真履だから」。二人とも同じような理屈を言って譲らなかったので、けっきょく稲生が伯耆國真守を、真之が大和千手院を買い取るということで妥協した。


 真之も兄ほどではないが酒好きであった。彼と姻戚関係のあった奥平清貞は次のように語っている。

 秋山将軍は酒が好きであった。将軍が私の家に見えられる時は、いつも真っ先に「酒を出してくれ」と言われたものだった。軍艦が入港した時、将軍はほかの士官たちと一緒になってよく酒を飲んだ。そんな時にはいつも誰よりもはしゃいで唄え飲めで騒いだものであったが、その代わりいったん軍艦へ帰ったとなると、酔いなどはどこかに吹き飛んだようにまるで別人になって執務するのが酒呑みとして将軍の最も好い所であった。」

  一方、子規の随筆に描かれている酔っぱらい真之。

「・・・・終いには秋山までが管を巻きだし「柳原、お前は才子だ」と公言すること五度に及べり。 (中略)  秋山「太田に忠告することがある。妻をとるとも大阪の女は取ってくれるな。それよりは松山の女をとれェよ」 (中略) こんどは余に向かい、秋山「正岡にいうが、お前学校を卒業しても教師にはなるなよ。教師ほどつまらぬものはないぞい。しかしこうやってお前が生きているのは不思議だ」などと独り面白がってしゃべりちらす。」



  真之はとても子煩悩であった。日露戦争終戦の翌年に長男 大(ひろし)が誕生した時、戦争で人の死に直面して神経をすり減らしていた真之にとってはこの上ない慰めとなり、非常に喜んだという。その当時のエピソードを、真之の孫にあたる元衆議院議員の大石尚子さんは座談会で次のように語っている。

「夜遅くに長男を懐に入れたまま散歩に行っちゃうから、赤ん坊がとうとう百日咳にかかって。たいへんな健康優良児だったのが、みるみる痩せてしまったそうです。それで枕元で「悪かった、悪かった」と謝っていたというようなことを聞いております」(文芸春秋2003年7月号より)

 海上勤務などで多忙な生活をおくっていた真之だったが、休みの日には子供達と真っ裸で水合戦をしたり、一緒に牛鍋を食べに行った。そして牛鍋屋の帰りには夜店で飴を買ったり、本屋に立ち寄ったりしながら帰っていた。
 また、絵が上手な真之は子供達のために絵を描くこともあった。そのほとんどが馬の絵だったという(兄の影響?)。そして子供達にも絵を描くことを勧め、その手本ということで当時流行していた絵ハガキを収集しはじめた。毎日仕事帰りに絵ハガキを買い集めてきては、子供達を喜ばせていたという。

 子煩悩で優しい一方、教育に関しては厳しい一面があった。食事中は子供達にはキチンと行儀良く座らせていたのだが、もちろん自分の行儀の悪さは棚に上げ、真之自身は妙な格好のままで食べていたという。