秋山好古の逸話

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 駐屯軍司令官として清国に滞在していた好古が帰国することになり、天津の領事館で送別会が開かれた。その席上、居留民を代表して伊集院総領事が送別の辞とともに「居留民一同の寄付金であなたに金時計を贈呈することになりました。しかし、ここにはその金額に相当する物がないので、今日は目録だけ贈呈したいと思います」と述べた。これに対して好古は答辞を述べた後、「私は元来粗野の武人であり、これから赴任する習志野は狐狸の住む荒地なので高価な物を頂いても如何かと思われます。せっかくのご厚意なので現金で頂きたい」と言ったので、参加者は金品に無頓着なことで知られる好古の意外な発言に驚いたが、本人の意思ということで現金の贈呈を決めた。すると好古は再び立ち上がり、「甚だ勝手なことを申し上げたのに対し、早速ご承知頂いたのは感謝の至りであります。しかし、たいした功績も残さずにこのような贈り物を頂くのは慚愧に耐えません。ついては、只今頂いた現金はそのまま日本居留民小学校に寄付しますので、その教育資金としてください」。好古のこの言葉に対し、会場から拍手が起こった。
 その後、天津を発った好古は太沾で船に乗って日本へ向かった。その船中、同行していた三井物産の呉永壽から花札をしないかと誘われた。「花札など知らん」と断ったが、呉が「私が教えますから、ぜひやりましょう」としきりにすすめるので、断りきれずに参加することになった。一通りルールを教えてもらった好古であったが、時々役札の使い方を質問するのでその手札が他の参加者に知られてしまい、旗色は悪くなるばかりであった。どうしても青短を揃える必要があった好古は呉に「君の所に青短があるだろう。それを出せ」「いくら閣下の命令でも、これはゲームだから出せません」「出さにゃ止めるぞ!」 この無邪気な発言に一同は大笑いし、勝負にならない花札はそれっきりで止めてしまった。


 奉天会戦後の対陣中、好古が法庫門の第三軍司令部を訪れることになった。それを知った乃木は「秋山は久しく入浴しないだろうから、風呂の準備をしておけ。それから酒も多めに」と管理部長に命じた。しかし、好古は夕方になっても現れず、夜になってようやく「酒気紛々として(津野田談)」司令部に現れた。津野田が遅刻を注意したが全く相手にされない。そして乃木との会談もわずか数分で終わらせて帰ってしまったので、せっかくの風呂の準備もムダになってしまった。


 明治38年11月、日露戦争終結によって日本軍の各部隊が帰国の途につき始めたが、好古率いる騎兵旅団は翌年の2月の帰国まで満州で越冬することになった。山内副官は好古の健康を気遣い、大連へ向かう汽車の中で掛け布団を作って好古に渡した。汽車が金州の停車場に着いたとき、坂野という騎兵少佐が好古のところに挨拶にやってきた。この時、坂野は健康を害して痩せ細り、蒼白い顔をしていた。この様子を見た好古は「坂野、お前寒いじゃろう。これをやるよ」そう言って掛け布団を手渡した。


 大将へ昇進してから帰郷したとき、先祖の菩提寺に参詣した。墓参りをすませた好古は、十円札を紙に包んで寺の住職に手渡した。住職はそれを開いて見るなり「これでは少し頂きすぎますので、お返しいたします」と遠慮して包みを返した。すると好古はその言葉を真に受け、「ああそうかい」と金を軍服のポケットに突っ込んでそのまま帰ってしまった。


 中学校長時代のある日、好古と語っていた植岡寛雄少将が無遠慮に「閣下はよく禿げましたね。どうしてそんなに禿げたんですか!」と尋ねた。すると好古は怒ることもなく「これか?俺が今の地位を得るまでの苦労は並大抵のことではなかったんだ。その間に俺は何千回、何万回となく頭を下げてきたから、とうとうこのように禿げてしまったのじゃ。お前ら若い者も、少しくらい見識があるからといって威張りくさって頭を下げることを知らなかったら、出世はできないんだぞ」。


 戦場でも酒を呑んでいた好古。もちろん酒にまつわるエピソードが一番多い。「坂の上の雲」には書かれていないものをいくつか列挙すると・・・

 士官学校に入学したばかりの頃のある日、好古は皿に山盛りにした漬け物を肴に数名の同僚と酒を呑みながら何事かをしきりに議論していた。ちょうどこの日に好古の家を訪れた友人の平井重則はその質素と豪飲とに驚いた。

 

 昌図で敵陣地視察のために乗馬しようとした瞬間、好古は上唇に流れ弾を受けた。軍医の手当を受けた後、いつものように水筒のフタにブランデーを注いで飲んでいたので、心配した中屋が「酒は傷によくありませんから、ご辛抱になっては・・・」と言ったが、「なあに、ええよ。痛くないから」 そう言って飲み続けた。数日後、好古の上唇は真っ赤に腫れあがってしまったが、それでも痛いのを我慢して毎日酒を飲み続けていた。
 ちなみに、戦前の伝記にはこの頃に撮られた「負傷せる将軍」という写真が載っている。軍服姿で堂々と椅子に腰掛けているが、口にはマスクのように包帯が当てられている。名誉の負傷というわけでもない、どちらかといえば格好悪い写真を撮っているのも好古らしい。

負傷せる将軍

 

 陣中で外国武官とビールを飲んでいたときのこと。無数の蠅が群がってコップの縁に止まるので、一同は絶えずその蠅を追い払いながら飲んでいた。しかし、好古は蠅を追い払おうともせず、蠅が飛び込んでいるビールをそのまま飲んだ。そして指先で一匹ずつ口から蠅を取りだしては捨てていたので、武官たちはア然としたという。

 

 日露戦争後、好古は副官だった中屋に対して「お前は俺と一番親しかったけれ、俺の長所も短所もよく知ってるだろうが、短所のまねをしてはいかんよ。酒を呑むまねなんかはせんがええよ

 

 また、もう一人の副官清岡と再会したときは、
「清岡、お前とはもう一度いっしょに戦争に行きたいな」
「そうですね。あまり強いお酒さえ召し上がらなければ、是非そうしたいものです」
「この次は酒は呑まないよ」
そのお言葉だけは保証できません!


 好古は無欠勤主義であり、また医者嫌いでもあったことから、家に居るのは公休日だけであった。その公休日も来客対応で過ごすことが多く、まれに暇な時でも座敷に独座して読書をするか庭を眺めて黙想するかで、子供はもちろん夫人といえども室内へ入ることはあまり許されなかった。このように、好古は家庭内で家族と接する機会が少ない生活をおくっていた。

 彼には二男五女の7人の子供がいたが、子供達の教育に関してはほとんど夫人任せで不干渉主義であった。自分の膝の上に乗せたのも末子くらいで、他の子はほとんど抱いた事さえなかったという。しかし、出征先や旅先からは家族達に宛てて頻繁に手紙を送っていることからも分かるように、彼が子供達に対して無関心で冷淡だったわけではない。彼の子供達に対する厳冷さというのは子供に対する教育というよりも、むしろ軍人という職責から後顧の愛着を軽減するための、自己に対する修養であったと思われる。

 昭和11年、好古の次女 健子が『父の俤(おもかげ)』と題した文章に、家庭における好古の様子を記している。(以下、抜粋)


 孫達が元気な姿で「御機嫌よう、お祖父様」と揃って挨拶するのを、嬉しそうに眺められるのであった。こうした挨拶は正しくするのが好きで、二つ三つの子供にも「お辞儀は丁寧にするものぢゃよ」と頭を撫で、優しく戒められた。

 父はまた食道楽というか、日曜や祭日には差し支えない限り、家族の者とよくそこここと食べ歩いた。母も、私達も父と食事をするのはこの時だけなので、余計に私達には楽しいものであった。宅にいる間は早朝庭の散歩して後は、書斎の机の前を滅多に離れたことがない。読書するか庭を眺めつつ、何時までも無言の行が続くのである。
 食事は常に母自身が高足の塗膳で書斎に運んでお給仕した。晩酌のご機嫌の良い時は、子供達も母の周囲にいて、賑やかに話したりお給仕を手伝ったりした。

 父は何事にも辛抱強い人で、自分自身も贅沢や我慢は少しもされない代わり、子供等にもこの点はよく戒められた。若い頃歯痛で一晩中苦しんで翌朝は皆が驚く程腫れていたが、傍の母さえ起こさなかったそうで、「自分の苦痛で人を起こしても仕方ない」と言われたと母がよく話した。
 晩酌の後夏休みなどは、よく父と縁先で五目並べをした。御相手は私か弟がよくしたものだ。私達が傍にいる時常に、
「人間は貧乏がええよ、艱難汝を玉にすと言うてね、人間は苦労せんと出来上らんのぢゃ。
 うき事の なほ此の上に 積れかし 心のたけを ためしてやみむ 
 分かるかい。こう言うように人間は苦しみと戦わんと偉い人にはなれんよ。苦を楽しみとする心がけが大切ぢゃ。」
と幾度か繰り返し諭された。しかもこうした反面に、父は温情な慈悲深い人であった。長女の姉が嫁してすぐに上海へ行った時など、日頃無口の人が、おかしい位よく姉のことを自分から言い出して、「上海へ手紙を書いてやれよ」と度々言われた。私が嫁ぐ前日、親心と題して次の二首を短冊に認めて下さった。
 よきにつけ 悪しきにつけて 思ふかな 子の行く末は 如何になるやと
 なへてとて 育つものとは 知りなから なせ斯くまでに 子を思ふかな
短冊の裏には嫁しての心掛を細々と認められてあった。今は私には父のこの上ないよき形見になった。


 秋山兄弟と同郷の白川義則は陸大の学生時代に好古の家に居候していたことがあり、好古の考えなどをよく理解していた。ある人が「秋山さんは元帥になるべき人である。日露戦争でコサックの大軍を破ったというだけでも元帥の値打ちはあるのに・・・」と言うと、白川は「そういうことは言うべきものではない。秋山さんは人間としての元帥だ」と諭したという。