子規の母 八重は夫の死後、実家である大原家の庇護を受けるが、家禄奉還によって得た一時金に加え、裁縫を教えて家計を補いながら子規と彼の妹 律を育てる。律は離婚後に上京し、八重と共に子規の看護をした。子規の死後は律が正岡家の戸主となり、さらに叔父 加藤恒忠の三男 忠三郎を養子とした。 その後、律は共立女子職業学校卒業後に教師となるが八重の看病をするために退職。その後は子規庵で裁縫教室を開いて生計を立てながら子規の遺品や庵の保存に努め、昭和3年に財団法人子規庵保存会の初代理事長に就任した。子規没後の正岡家やその家族については、「坂の上の雲」の続編ともいえる「ひとびとの跫音」で詳しく紹介されている。
本名金之助。小説家、英文学者。東大英文科在学中、正岡子規と親交があり俳句をつくるようになる。松山中学教諭、五高教授を経て、明治33年イギリスに留学。「ホトトギス」に連載した「吾輩は猫である」で作家デビュー。代表作は「坊っちゃん」、「三四郎」など。
〜 Episode 〜
漱石の代表作のひとつである「坊ちゃん」は、彼が松山中学校に教師として赴任した時の経験をもとに執筆された作品である。
漱石が東京から赴任したばかりの頃、生徒たちが新任教師の実力を試そうとして意地悪な質問をした。「先生、そこのところの訳が間違っておりますが」そう言って前日に徹夜をして辞書で調べてきた意味などを説明すると、漱石はその質問に悠々とした態度で次のように答えた。「一つは辞書の誤り、もう一つは著者の誤りだ。その二つとも書物のほうを直しておきなさい」。
また、松山中学には『教科書以外の品物は教室に持ち込んではいけない』という生徒規則があった。それにもかかわらず、当時子規と愚陀仏庵で同居して句作に打ち込んでいた漱石は教壇へ俳句集を持ち込み、生徒達が黒板で英作文の問題を解いている最中にそれを読んでいたという。
子規の「墨汁一滴」の中で漱石について次のように書いている。
『余が漱石と共に高等中学校に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたっていない処である。漱石は子供の時分からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であったらう。そこらの水田に植えられた苗がそよいで居るのは誠に善い心持ちであった。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰う所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である。』
子規の叔父、好古の友人。外交官、衆議院議員などを務める。松山市長を務めた時には、陸軍省から城山公園を払い下げて市民に開放し、松山高等商業学校の創立にも尽力した。三男、忠三郎は律の養子となり、正岡家を継いだ。
〜 Episode 〜
ある日、金に困った加藤が収集していた硯を売るという噂が流れた。それを聞いた資産家の友人が大金で買い取ろうとしたところ、加藤はこの申し出を拒否。そして数日後、加藤はその硯を別の友人に原価で売ってしまった。後に資産家の友人がこれを聞き、「何で僕に売ろうとしなかったんだ?」と尋ねると、加藤は 「君が高値で買おうとしたから嫌になった」と答えた。その友人が 「でも、君が買ったときより物価も上がったし、金利のこともあるから当然だよ」と言うと、「馬鹿なこと言うな。友人から金利なんて取れないよ」と、加藤は平然と答えたという。
愛媛県選出の議員になった時のこと、東京へ向かう加藤を見送りに来た地元の有力者たちに対し、「私は特に地元のために働くというようなことはしないからね」と語った。
弘前市出身。本名は中田実。明治9年に司法省法学校に入るが、のちに原敬らと共に退学させられる。その後、新聞「日本」を創刊し、社長兼主筆となる。国民主義を唱え、近代ジャーナリズムの先駆けとして明治言論界をリードする。
〜 Episode 〜
人格、見識、文章などすべてにおいて羯南に敬服していた子規も、彼の囲碁の腕前については『妙だね。すべてに修養が行き届いているのに、碁だけ磨けていないと思われる』と評していた。羯南は下手なばかりか、時々一生懸命ペテンをやっていた。囲碁仲間の国分青高笊泱{日南にも全く勝てず、上達もしないので、日南が碁をやめるように勧めたが、羯南は「碁はやめてもいいが、助言をするのはやめない」と言って、下手にも関わらず、彼らの碁に口を挟み続けた.
俳人。本名は清。三高中退後、正岡子規に師事。子規派の俳句雑誌「ホトトギス」を継承して主宰。「客観写生」を唱えて、俳句を花鳥諷詠の詩と主張し、大正・昭和の俳壇に君臨。碧梧桐の「新傾向」に反対し「守旧派」として対抗した。
〜 Episode 〜
若い頃は小説家を志望していた虚子は、下宿の壁に「大文学者」と書いた紙を貼っていた。病気で寝込んだ時にもそれを眺めていたので、そのことを聞いた子規から、「大文学者の肝小さく冴ゆる」とからかわれた。虚子は後に子規の晩年を描いた「柿二つ」などの小説を書いている。
俳人。本名は秉五郎。正岡子規に師事。子規の俳句革新運動を助け、子規没後は「日本」「日本及び日本人」の俳壇担当となる。明治38年頃から「新傾向俳句」に走り、全国遍歴の旅にでる。やがて「守旧派」の虚子と対立するようになる。
〜 Episode 〜
ある日、佐藤紅緑が会費が払えないから子規の句会に参加できないということを告げると、碧梧桐は「僕も一文無しだが、銭がないから行かないというわけにもいかないだろう。升さんに言って借りよう」と言って、二人は金を借りて句会に参加した。
本名は正之。松山中学に入学し、後に子規と共に中退。上京して共立学校をを卒業した後は松山に帰り、海南新聞社の記者となる。子規が帰郷したときに俳句の指導を受け、明治30年に子規と共に月間俳誌「ほととぎす」を発行した。生涯を子規顕彰に捧げる。
本名は素行。県学務課長、文部参事官を経て、明治22年に常磐会宿舎の監督となり、子規から俳句の指導を受ける。監督を秋山好古に譲った後、さらに俳句に専念するようになった。彼の死後、新聞社から郵送された選句料が封も切らずに残されていたという。