坂の上の雲
日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた秋山好古。東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った秋山真之。病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、その明治という時代を生きた「楽天家達」の生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)までの
約4年間、産経新聞夕刊に連載された。また、2009年から3年間、NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放映される。
司馬遼太郎
大正12年、大阪府生まれ。大阪外語学校卒業。昭和34年に「梟の城」で直木賞を、平成5年には文化勲章を受賞。平成8年死去。主な著作は、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「翔ぶが如く」「項羽と劉邦」「花神」など。
松山の下級武士の家に生まれた秋山好古。「貧乏がいやなら、勉強をおし」と父から言われ、学費が無料である大阪の師範学校に入学する。その後、やはり無料で学べるというだけの理由で陸軍士官学校騎兵科に転じた。しかし、当時の日本には騎兵どころか馬すら十分に存在していない。彼は一から「日本騎兵」を育てていくことになる。 | |
好古の弟 秋山真之も上京して友人の正岡子規と共に文学の道を志す。しかし、兄に学費を頼る生活に引け目を感じた真之は、大学予備門を中退し自らも無料で学べる海軍兵学校へ入学した。そして兵学校を首席で卒業し、渡米して海軍戦術の研究に没頭する。日露戦争における日本海軍の戦術はこの時に生まれたと言っても過言ではなかった。 | |
『春や昔十五万石の城下かな』 明治二十八年、松山に戻った正岡子規は故郷の人情や風景ののびやかさを、のびやかなまま詠いあげた。 立身出世を志して上京した子規。やがて文学の道へ進むことを決意するが、肺結核に冒されて病床での生活を余儀なくされてしまう。しかし、彼は死と向かい合いながらも筆を執り続け、旧弊と戦い続けて俳句・短歌の革新を成し遂げていく。明治三十五年、子規は志半ばで息を引き取る。その夜は十七夜の月が輝いていた。 |
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明治三十七年二月、日露戦争が勃発。好古は自ら育て上げた騎兵を率いて各地でロシア軍のコサック騎兵と死闘を繰り広げた。そして翌三十八年一月、日本軍左翼を守る秋山旅団の前に十万を超えるロシア軍が襲いかかる。「一歩も逃げない」その信念だけで戦い続けた好古は日本軍を壊滅の危機から救い、決戦の地 奉天へ向かった。 | |
明治三十八年五月二十七日、霧が立ちこめる日本海にロシアのバルチック艦隊が姿を現した。連合艦隊の参謀に抜擢された真之は、連合艦隊の旗艦三笠に乗艦し迎撃に向かう。午後一時五十分、三笠にZ旗が掲げられた。「皇国の荒廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」― 国家の命運を賭けた大海戦の火蓋が切って落とされた・・・・。 |
欧米諸国に追いつこうとして近代化を推し進める明治日本。その近代化の原動力となった明治人たちは、未完成の国家と自らの姿とを重ね合わせ、国創りの一部を担う気概をもってそれぞれの専門分野の確立を目指した。日本騎兵を育て上げた好古、日本海軍の戦術を確立した真之、そして俳句・短歌の革新を成し遂げた子規、主人公はそんな明治人たちの一例である。そして、本文で「この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれない」とも述べられているように、国全体が、そこに生きる人々すべてが、目の前に浮かぶ雲(夢、目標)を見つめながら近代化への坂を上り、その実現に向けて突き進んでいった。
『坂の上の雲』の最後の回を書きおえたときに、蒸気機関車が、それも多数の貨物車を連結した真っ黒な機関車が轟音をたてて体の中をぬきすぎて行ってしまったような、自分ひとりがとりのこされてしまったような実感をもった。連載を書き終えてこのような実感をおぼえたのは、以前に「竜馬がゆく」を書きおえたとき以外にない。
気恥ずかしさを押して私事をいえば、私は他の長編の場合はただ一人の人間を追う事で終始しているつもりだが、右の二つの作品だけは多数の人間とつきあわざるをえなかった。『坂の上の雲』にいたっては三人の主人公らしき存在以外に数万人以上とつきあった感じで、その意味では作者は寒村の駅長にすぎず、つぎつぎ通りすぎてゆく列車たちに信号を送ったり、車掌から物をうけとったり、列車の番号と通過時間を書類に書き込んだりする役目にすぎなかった。(中略)
ともあれ、機関車は長い貨物車の列を引きずって通りすぎてしまった。感傷だとはうけとられたくないが、私は遠ざかってゆく最後尾車の赤いランプを見つめている小さな駅の駅長さんのような気持ちでいる。
司馬遼太郎全集 第68巻 「坂の上の雲」を書き終えて」 より
上記は司馬遼太郎全集 第68巻に収録されている「坂の上の雲を書き終えて」の一部分を引用したものであり、文庫本に収録されている「あとがき」とは一味違った執筆後の感想が述べられている。司馬作品の中でも特に人気のある「竜馬がゆく」を書き終えたときの実感と同じであったというところが興味深い。
「坂の上の雲」では基本的には三人の主人公を軸に物語が進むが、時には主人公がほとんど登場せずに別の人物(山本権兵衛や明石元二郎)がその章の中心人物として描かれるなど、多くの登場人物たちが脇役という枠を超えた存在感を与えられている。大勢の明治人たちを各章ごとの貨車に詰め込み、「坂の上の雲」という機関車で次々と世に送り出して行った司馬遼太郎。40代の大半を費やした大仕事を終え、今まで詳細に調べてきたことで身近に感じていた登場人物たちが遠ざかってゆく、そんな寂しさを感じていたのかもしれない。また、「あとがき一」で引用されている中村草田男の句『降る雪や
明治は 遠くなりにけり』のように、遠ざかっていく機関車を過ぎ去った「明治」という時代に見立てて感慨に耽っていたのであろう。
なお、同じ全集の第68巻にはこの他にも『「旅順」から考える』、『ステパーノフ「旅順口」について』、『”旅順”と日本の近代の愚かさ』という短編が収録されており、旅順や昭和陸軍に対する著者の考えなどをうかがい知ることが出来る。
ひとびとの跫音
昭和56年の作品。第33回読売文学賞を受賞。子規の妹の律、叔父の加藤拓川、養子の正岡忠三郎、共産党員であり詩人でもあったタカジ(ぬやま・ひろし)など、子規と関わりのある人々を描いた、『坂の上の雲』の続編とも言える作品。『坂の上の雲』執筆前に挨拶を兼ねて秋山家、正岡家の方々を料亭に招いた時のエピソードも載っている。著者の言葉を借りると、「この稿の主題は子規の「墓碑銘」ふうの、ごく事歴に即したリアリズムでいえば、「子規から『子規全集』まで」というべきものであったかと思っている。しかし私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった」 そこで、「人間がうまれて死んでゆくということの情趣のようなものをそこはかとなく書きつらねている」 そんな作品である。
殉死
昭和42年の作品。第9回毎日芸術賞を受賞。旅順攻撃を描いた『要塞』、乃木と静子の結婚から殉死までを描いた『腹を切ること』の二部構成。冒頭で 「以下、筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く。・・・(中略)・・・筆者自身のための覚えがきとして、受けとってもらえればありがたい。」と書かれているように、翌年から執筆される『坂の上の雲』の準備段階とも言える作品かもしれない。
この国のかたち
昭和61年〜平成8年まで文芸春秋に連載されていたエッセイ。下記のように、「坂の上の雲」やその登場人物に関する話題もいくつかある。
・『高貴な"虚"』 : 大山、東郷、児玉の将器と薩摩の方言「テゲ」について
・『馬』 : 騎馬民族、義経の騎兵戦術、好古の騎兵戦術
・『徳』 : 明治人の心、陸羯南の人徳
・『日本人の二十世紀』 : 日露戦争で始まった日本の二十世紀とリアリズム
翔ぶが如く
昭和47年の作品。平成2年に大河ドラマ化。西郷隆盛、大久保利通、川路利良らを中心に、征韓論から西南戦争までの明治日本を描いている。伊藤博文、山県有朋、西郷従道、大山巌など当時から新政府中央で重要な役割を担っていた人物だけでなく、将校として西南戦争に参加した児玉源太郎、乃木希典、野津道貫、奥保鞏、黒木為驕A立見尚文など、「坂の上の雲」登場人物も多数登場している。