出身地 ロシア |
|||||
生没年 1848年〜1904年 |
|||||
全名 ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ |
|||||
精神力を重視マカロフは著書「海軍戦術論」において精神的要素を重視し、「戦争における成功の四分の三は精神的源素によって決し、物質的状況如何によって決するのは四分の一」と述べている。また、海戦の要素として(1)勇敢、(2)海事知識、(3)艦および砲の操縦の巧拙、(4)艦長の眼識 と、人間の技能的要素を重要視している。 |
出身地 |
出身校 |
大学予備門 |
|||
生没年 |
1867年〜1902年 |
雅号 |
獺祭書屋主人 |
||
詳細情報エピソード、著作など詳細は個別ページ「正岡子規」に掲載。 |
1832年〜1872年。正岡子規、律の父で名は常尚。佐伯家から正岡家に婿養子として入籍した。藩の馬廻加番役を務めたが、酒のために健康を損ない、子規が6歳の時に亡くなった。
武術でも学問でも特に名の知られた人物ではなく、「正直な良い人」「大酒のみ」という評判しか残されていない。
1845年〜1927年。正岡子規、律の母。夫の死後、実家である大原家の庇護を受けるが、家禄奉還によって得た一時金に加え、裁縫を教えて家計を補いながら子規と彼の妹 律を育てる。明治25年に上京し子規と同居。子規が亡くなるまで律と共に看護を続けた。子規没後は律とその養子 忠三郎と共に子規庵で暮らし続け、昭和2年に83歳で亡くなった。
1870年〜1941年。正岡子規の妹。2度結婚するが離婚し、母の八重と共に上京して子規と同居。明治35年に子規が亡くなるまで看護し、兄の創作活動を支え続けた。子規の死後は律が正岡家の戸主となり、さらに叔父
加藤恒忠の三男 忠三郎を養子とする。 その後、律は共立女子職業学校卒業後に教師となるが八重の看病をするために退職。子規庵で裁縫教室を開いて生計を立てながら子規の遺品や庵の保存に努め、昭和3年に財団法人子規庵保存会の初代理事長となった。
なお、子規没後の正岡家やその家族については、「坂の上の雲」の続編ともいえる「ひとびとの跫音」で詳しく紹介されている。
出身地 |
陸軍士官学校 |
||||
生没年 |
1859年〜1928年 |
陸軍大学校 |
|||
最終階級 |
日露戦争時 |
満州軍参謀 |
|||
詳細情報松川のエピソードは個別ページ「松川敏胤」に掲載。 |
アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan)。1840〜1914。アメリカの海軍軍人、戦史研究者。父は陸軍士官学校教授のデニス・ハート・マハン。1859年にアナポリス海軍兵学校を卒業。南北戦争に従軍したほか、イロコイ号副長として戊辰戦争中の日本にも来航している。1885年から海軍大学校で教鞭を執り初め、翌年には校長に就任。在職中に代表作である「海上権力史論」を執筆し、秋山真之など各国の海軍軍人に大きな影響を与えた。退役後も研究・執筆を続け、「ネルソン伝」「海軍戦略」などを発表。「日露戦争実記」にも寄稿している。 日本への来航少佐時代、マハンはイロコイ号の副長として大阪湾に来航したことがあった。当時、京都では鳥羽伏見の戦いが勃発し、大阪城を脱出した徳川慶喜がイロコイ号に逃れて来たため、翌日に幕府の軍艦開陽へ移るまで艦長室で歓待したという。 |