「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【ま】

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マカロフ


マカロフ

出身地  ロシア

生没年  1848年〜1904年

全名    ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ


 太平洋艦隊司令長官のもとで勤務した後、1867年に少尉候補生として3年間の大西洋航海を経験する。1876年の露土戦争では汽船でトルコ港湾の砲撃で名を馳せた。戦後はバルチック艦隊参謀長、砲術総監、地中海艦隊司令長官などを務める。日清戦争が勃発すると地中海艦隊を率いて極東に急行し、三国干渉の主唱者となった。その後、バルチック艦隊総司令官、クロンスタット軍港司令官を歴任するが、日露戦争勃発直後に太平洋艦隊司令官として旅順へ着任。艦隊の士気を高め、日本艦隊を相手に善戦したが、旅順港外で旗艦が触雷沈没し戦死。
 ロシアが誇る海軍戦術の大家であり、その著書「海軍戦術論」は日本海軍軍人の中にも読者が多かった。また、砕氷船の設計、北極探検など学術研究も行っていた。


精神力を重視

 マカロフは著書「海軍戦術論」において精神的要素を重視し、「戦争における成功の四分の三は精神的源素によって決し、物質的状況如何によって決するのは四分の一」と述べている。また、海戦の要素として(1)勇敢、(2)海事知識、(3)艦および砲の操縦の巧拙、(4)艦長の眼識 と、人間の技能的要素を重要視している。



正岡子規【まさおかしき】


正岡子規

出身地

松山藩

出身校

大学予備門

生没年

1867年〜1902年

雅号

獺祭書屋主人
竹の里人


 明治を代表する俳人の一人。有名な「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句の作者である。月並俳諧を批判して「写生」の重視を主張するなど、近代俳句の基礎を築きあげた。また、その創作活動は俳句だけにとどまらず短歌、新体詩、随筆、評論など多方面に渡り、近代文学にも大きな影響を及ぼした。
 幼名 升、本名 常規。松山藩士 正岡常尚の長男として生まれるが、早くに父を亡くし、母の実家である大原家の庇護を受けながら育つ。幼少期は学校に通いながら、外祖父 大原観山のもとで漢学を学んだ。明治16年に中学を中退して上京。須田学舎、共立学校を経て翌17年に東京大学予備門へ入学。在学中に肺結核を患い、喀血した明治22年に「子規」と号した。明治25年、国文科を中退し陸羯南の日本新聞社に入社。「日本」紙上に俳句欄を設けるなど、句作活動も精力的に行うようになる。明治28年の日清戦争従軍後から病状が悪化するが、病床で高浜虚子、河東碧梧桐らに口述筆記させながら病床で著作活動を続けていた。明治35年9月19日に34歳の若さで急逝。

詳細情報

 エピソード、著作など詳細は個別ページ「正岡子規」に掲載。


正岡隼太【まさおかはやた】

  1832年〜1872年。正岡子規、律の父で名は常尚。佐伯家から正岡家に婿養子として入籍した。藩の馬廻加番役を務めたが、酒のために健康を損ない、子規が6歳の時に亡くなった。
 武術でも学問でも特に名の知られた人物ではなく、「正直な良い人」「大酒のみ」という評判しか残されていない。


飲みすぎて家を焼く

 隼太とその義母(先妻の母)は共に大酒のみであった。ある日、八重と子規が大原家に出かけている間に二人で酒を飲んでいたが、風呂の火を消し忘れて寝てしまい、自宅を全焼させてしまった。



正岡八重【まさおかやえ】

 1845年〜1927年。正岡子規、律の母。夫の死後、実家である大原家の庇護を受けるが、家禄奉還によって得た一時金に加え、裁縫を教えて家計を補いながら子規と彼の妹 律を育てる。明治25年に上京し子規と同居。子規が亡くなるまで律と共に看護を続けた。子規没後は律とその養子 忠三郎と共に子規庵で暮らし続け、昭和2年に83歳で亡くなった。


火事にも動じない

 子規が3〜4歳の頃、八重が出かけている間に隼太の火の不始末で家が全焼したことがあった(前述)。帰宅した八重は家財道具も全て焼けてしまった家を見ても動じることもなく、落ち着いた様子であったという。



正岡律【まさおかりつ】

 1870年〜1941年。正岡子規の妹。2度結婚するが離婚し、母の八重と共に上京して子規と同居。明治35年に子規が亡くなるまで看護し、兄の創作活動を支え続けた。子規の死後は律が正岡家の戸主となり、さらに叔父 加藤恒忠の三男 忠三郎を養子とする。 その後、律は共立女子職業学校卒業後に教師となるが八重の看病をするために退職。子規庵で裁縫教室を開いて生計を立てながら子規の遺品や庵の保存に努め、昭和3年に財団法人子規庵保存会の初代理事長となった。
 なお、子規没後の正岡家やその家族については、「坂の上の雲」の続編ともいえるひとびとの跫音で詳しく紹介されている。


歳に似合わず大人びて

 柳原極堂は著書「友人子規」の中で「予が子規の書斎に出入りを始めたころの令妹律子は十二三歳で、まだ全くの子供だったが、母堂が家庭を引締めて厳重に訓育されていた関係であろうか、常に大きな声をあげて談笑されるとか、騒々しく音を立てて嬉戯されるというようなことは無く、歳に似合わず大人びて、しとやかであった」と回顧している。


母と妹も偉い

 子規の主治医は後に「子規も偉い人間には相違ないが、御母堂御令妹の彼に対する奉仕と愛ともまた偉いものだった。我々医家として毎日多数の病家に出入するが、子規の家の如きところはそうそう見当たるものではない。御母堂特に御令妹は十分表彰されてよい方だと思う」と語ったという。




松川敏胤


松川敏胤

出身地

仙台藩

陸軍士官学校

旧5期

生没年

1859年〜1928年

陸軍大学校

3期

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

満州軍参謀


  仙台藩出身。藩校 養賢堂、二松学舎を経て明治15年に旧5期生として陸軍士官学校を卒業。広島鎮台での3年間の部隊勤務後に陸軍大学校に入学し、明治20年には3期の優等で卒業した。その後、第5師団副官、第2軍参謀、ドイツ公使館附武官、参謀本部第一部長などを歴任。明治23〜26年と28〜32年には陸大の兵学教官として戦術教育を担当しており、教え子の中には日露戦争中に軍参謀を務めた者も多かった。
 明治37年、児玉源太郎の要請で満州軍の作戦参謀に就任。黒溝台会戦では判断ミスがあったが、遼陽会戦から奉天会戦まで主要作戦の策定で中心的な役割を担った。戦後は参謀本部第1部長、旅団長、師団長、朝鮮駐剳軍司令官、軍事参議官などの要職を歴任し、大正7年に陸軍大将となっている。

詳細情報

 松川のエピソードは個別ページ「松川敏胤」に掲載。


マハン


 アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan)。1840〜1914。アメリカの海軍軍人、戦史研究者。父は陸軍士官学校教授のデニス・ハート・マハン。1859年にアナポリス海軍兵学校を卒業。南北戦争に従軍したほか、イロコイ号副長として戊辰戦争中の日本にも来航している。1885年から海軍大学校で教鞭を執り初め、翌年には校長に就任。在職中に代表作である「海上権力史論」を執筆し、秋山真之など各国の海軍軍人に大きな影響を与えた。退役後も研究・執筆を続け、「ネルソン伝」「海軍戦略」などを発表。「日露戦争実記」にも寄稿している。

日本への来航

 少佐時代、マハンはイロコイ号の副長として大阪湾に来航したことがあった。当時、京都では鳥羽伏見の戦いが勃発し、大阪城を脱出した徳川慶喜がイロコイ号に逃れて来たため、翌日に幕府の軍艦開陽へ移るまで艦長室で歓待したという。