単に参謀官としての頭脳許りではなく、未来のゼネラルとしての胆力も相応に持っていたこの人が追い追いどんな仕事をするか、世界は益々多事に、口に平和をいうのに反比例して実質は益々物騒ならんとしつつある今日、そういう経綸を懐いて、我が海軍の能率を高めんとするか、殊には我が少壮士官が口癖のように言っている次に来るべき海戦、それは不可避の運命を持っている我国空前の代国難、その華々しい背景を領して、どれ程のヒロイン振りを発揮するか、手短く言えば国としてその運命をどう片付けるか、個人としてどんな死に方をするのか、それに多少の期待を持っていないでは無かった。実際新顔の代議士が日比谷座で演ずる喜悲劇よりは、より深刻に、より真剣に興味の湧起する問題であった。
が、十分な期待を持っていた本場所での取り組みが、下手な立ち方をして呆気なく負けてしまったと同様に、宿痾という程でもない平凡な病気で平凡に死んでしまった。この人の贔屓の心理状態から言えば、惜しいよりも悲しいよりも、寧ろ口惜しく腹立たしい。もうお役に立たない老衰者でもなし、軍人がこの国家多事の日に当たって、畳の上で安楽往生するというのは、その面目から言って一種の恥辱でなければならない。
しかしその恥辱的な平凡な死も、この人自身にとっては、さまで重大な、悔やんだり狼狽したりする問題で無かったかも知れない。恥辱的と考えるのは、軍人という観念を前提としての一般的客観的説であって、この人にはもっと超脱的な自己中心の主観説があったかも知れない。軍人非軍人の区別よりも、普遍的な人としての自己処分の哲学があったかも知れない。そは兎も角、この平凡な死が一面この人を能弁に語っている。その死によって、その蔽うべからざる性格が露出している。それを否むことは出来ないようである。
去年の八月頃であったと思う。世間には伝わらずに済んだが、盲腸炎を患って一時入院していたことがあった。それも変に腹が痛むというのを打ち棄てて置いた揚句に入院したのであったが、病原は盲腸で、もう手後れになってしまった、と言って匙を投げられた程だった。同郷の白川義則(陸軍少将、現に陸軍省事務局長)氏などが極力斡旋し、漸くの事で一命だけはとり留めてホッと一息ついた頃のことことである。まだ人との面会も、新聞雑誌類を読むことも医者から禁じられていたに関わらず、何構うものかと言った調子で、随分付き添いの看護婦を手古摺らせたものだった。またそういう事にかけては親友の注意も、先輩の勧説も、殆ど馬耳東風に聞き流してしまった。漸く退院することを許されて小田原に往ったのは、健康の恢復するを待って、盲腸切断の手術をする為めであった。実際手術をしなければ根本治療は出来ない、今までのは手術を施す事が不可能であった姑息の療法に過ぎなかったのだ。そんな事は百も承知しておりながら、小田原に往っても、相変わらず無造作というよりも、随分無鉄砲なことをやっていた。強飯を食ったり、酢章魚(すだこ)で一杯やったり、時には読書しつつ夜を徹することもあった。健康体にかわらないその衛生状態が恐るべき禍機を含んでいることを窃かに憂慮したものもあったが、そこに一点の疑いも刹那の不安も感ぜなかったのは、ただ自己一人のみであった。そうして死の最後の判決を下されたとて、誰を恨み、何を悔いるべきであろう。従容としてその判決に服従する外ないではないか。
死の問題に対してもそれ程無頓著であり得る人が、その他日常の茶飯事に粗笨であり投げやりでなかったとは想像されない。その専門的な職務以外の事は、どうでもいい、というのがその主張であった。縁族の事、妻子の事、もしくは衣食住の事、そんな事に頭を使っている遑(いとま)はない、というのがその平生の懐抱であった。自己の立場から理性的にさる主張や懐抱を産み出したのではなくて、性格の自然がそれであった。後天的の習慣でなくて、先天的の素質であった。日露戦争の殊勲者になろうと、昇進して中将になろうと、それが為めに言行を二三にする利口なことは出来なかった。海の戦術者として以外この人は、いつまでも粗暴訃訥の一書生であった。
我等はこの人のために弁じて置きたい。非衛生的の挙措のために、死を早めたのは、決して自己の生命を軽んじたのではない、常規に嵌らないその素質が、偶々生命を軽んずるような結果になったのだと。
日常の事に対する無頓著癖は、あるいは秋山家の一つの遺伝であるかもしれない。兄好古大将の蛮カラさ加減も、既に世に定評がある。蓬頭垢面で欧州の交際社会を押し通して来た、有名な蛮的明石中将をその満州駐屯時代に凹ました逸話は人口に膾炙(かいしゃ)している。大将の家庭に往って見ると、幼い子供達は、これを自由に放任して置いて、どのような事があろうと、叱りも罵りもしない家風があるようだ。何かの祝いの時に小宴に列なった人が、嘗て実見談をしていた。御膳を運ぶ子供達が中途で口取りの皿をとり落としたが、別に驚きもしないで、それを摘んでは頬張っていた。自分がそれを貰ったもののように嬉しそうな顔をして食うのだ。それを始終見ていた大将は、さも感心したらしく「やるかい」と言ったきりだったと。大将の娘の結婚の時も、時勢に構わない古風で投げやってあったのを、兎も角弟中将が、兄大将を説服して、自身三越へ出掛けて往って、どうやら可笑しくない程度にまで仕度が出来たという話も同郷人間に伝わっている。
弟中将の方が少しは融通も利いたであろうが、その無頓著癖でどれ丈の仕度が出来たか恐らくはその道の者に好話柄を残すに過ぎなかったのであろう。
この一事は端なく二人者の面目を陰約の間に語るものになっている。
兄の無頓著さは、その蔭に辿るべき条理があり、その結果に味わうべき教訓がある。つまり土台は整然と築き上げられた上の一茅屋である。見かけは茅屋であっても、その土台の地鎮工事には煉瓦造りのそれよりも入念に仕上げられているのだ。弟の無頓著は、何処までも剥き出しの実質そのものだ。
もし有頓著に教育さるれば、その無を有に転ずることが出来たかも知れないが、それだけの面倒を見ずにうっちゃったウブなものだ。つまり包蔵する所も、蔭蔽する所もない未開の植民地であったのだ。兄は出来上がっている。錬れている。弟のは余りに明白であり、華やかであった。それだけ兄のは大きく見え、当りが穏やかである。弟のは出鱈目のようで何処かに鋭いものがあった。兄に感服するものは、老少上下の区別なく比較的に不変である。弟のは同僚にも先後輩にも可なりの敵を持っていた。
兄大将の序(つい)でに、今一人長兄岡正矣氏のあったことも記憶せねばならぬ。元日鉄の重役をしてそれが国鉄に買収せられると同時に、朝鮮に在って、日韓瓦斯の重役になった。併合後も同会社に勤めていたが、昨冬病を得て物故した。この長兄は何等世に聞ゆることもなく、平々凡々の生涯を送ったようであるが、その平々凡々が満更無味でなかったことは、この三兄弟の生い立ちによっても証明される。郷里の松山では兄弟鼎立の三幅対として、この兄弟と山路一家の兄弟 − 長兄一遊は愛媛師範校長、次兄は元満鉄理事の佃一予、少弟は海軍の一善 − とを立身成功の鑑みとして畏敬しているように、この三兄弟の生い立ちは、所謂立身伝中の好話題なのである。そうして二弟の時勢に持て囃される華々しい生活のその基礎ともなり下積みともなったのは、長兄の平々凡々の一生でもあったのだ。
兄大将はいつでも自分の青年時代の事を語って、湯屋の水汲みに雇われては僅かばかりの小遣いを貰った話をする。それ程廃藩置県の際扶持に離れた小身者の苦しい状態を語っている。我輩等の幼い頃に誰にでも好かれた絵凧があった。頼光でも弁慶でも、達磨でも、皆それぞれの人らしくてそれに色が違っていた。事実であるか否かは知らないが、当時その絵凧は秋山のお父さんがお書きになるのだ、と言い伝えられて、我輩などは秋山の凧といっては親たちにせがんだものだった。
そういえば松山出身の軍人として聞こえた仙波中将も、若い時には魚を振り売りしていたこともあった。小島、小原両少将なども相応に苦しい経験を経て来ている。
つまらない昔話をするようであるが、我輩が十一二歳の物心のつき初めた頃に、少なくも我輩の憧憬した二青年があった。何だかその統率の麾下に参ずる一兵卒のような気で、物見遊山に往ったり、泳ぎに往ったりしたものだった。尤もそういう一種の団体が各方面にあって、よく衝突したり、態と喧嘩を買いに往ったりした。我々の団体の隊長とも崇められて、陰然首領株を以て目されていたのが馬島某であった。温厚寡黙の人で、皆よく懐いていた。その人はその後どうなったか、吾輩の記憶はただ当時の一齣(こま)のみが夢幻の如く朦朧として遺っているのみだ。今一人の青年は隊中の闘将とも言うべきで、どんな相手にも背ろを見せない颯爽(さっそう)たる気魄(きはく)と風采とを持っていた。その闘将が先頭に立つ時、天下に何の恐ろしいものもないような勇気と安心とが、我々の胸に一杯になる程だった。名を秋山のじゅんさんと言った。馬島はやさしくて好きであり、じゅんさんは恐ろしくて好きであったのだ。
秋山中将だの真之中将だのというのは、殊に我輩には親しくない。我輩は今日まで、当の中将に会っても、この青年時代の呼び名、じゅんさんを変えたことがなかった。どんな会合の席でも、どんな談話の筋でも、「オイじゅんさん」で済んで来た。じゅんさんもまたその鋭い目付きに、言い知れぬやさしみを湛えて、口辺に微笑を洩らすのであった。五尺の短身総てこれ胆と言った風の気概では、海軍の知嚢謀将たる今の中将も、腕白時代のじゅんさんそのままであった。
僻陬(へきすう)の一腕白闘将が、世界の大舞台の謀将とまで向上した。その運命は誰にも予想されなかった奇な運命であると言えば、それまでであるが、正矣、好古両兄の背景、物質的よりも寧ろ精神的の感化、あるいは後援といい得るかもしれない、その背景の存するところを忘れてはならない。じゅんさんの闘将が、当時間もなく民間に流布した政治熱に浮かされて、貧乏壮士の仲間に投じなかった、それだけでも地味な兄の牽制を無視することは出来ない。
「舷々相摩す」の一公報によって、一時に盛名を贏(あま)ち得たことは、この人にとって寧ろ一徒事であったかも知れない。旅順の艦隊の殲滅に次いで、波羅的艦隊の迎撃に関する策戦方略、それは恐らく智嚢の総てを傾け尽くした、他の窺知することの出来ない惨憺たる経営であった。日露の海戦の彼の如く無造作に片付いてしまった後では、波羅的艦隊も馬鹿に手応えのないものだった。で盥に浮かべた玩具の船でも見るような気軽な話柄にもなるが、その実際にブツかるまでは、それが為に日露戦争の全運命を顛覆するか否かの鍵とも見られた。当時東郷麾下の謀将雲の如き中にあって、この人の策戦方略がその主題となった事実から見れば、その報いらるべき道はなお他に無ければならない。
「舷々相摩す」の公報の如きは、海図に朱線を引いて、それを真っ赤に染めたインキの一飛沫に過ぎない、この人にとっての些末の余技なのだ。その余技によって、隆々の盛名を博することに、その人として禁じ得ない皮肉を感じないであろうか。
遮莫(さもあらばあれ)、その智嚢を傾け尽くした名誉の策戦方略も、要するにその職務を完うしたのだ。その本分に忠実であったのだ。軍人に国家を賭しての大責任がなければ、それはただの尸位素餐(しいそさん)の徒だ。これ位大食いの居候はないのだ。よしんば直接国家の運命に影響するとは言え、職務を完うし、本分に忠実であることを軍人に限って特記するには足らないのだ。国家の運命を賭する大責任、今日の社会状態では、これ位大きな責任はない。これ位充実した生活の背景はない。軍人は一命を捨てる、自分の一命を賭することが、その終極の目的であるように考えているものも少なくはないが、この大責任と大背景を背負って立つことが却ってその本分であることを忘れてはならないのだ。寧ろその大背景を背負わすことは、社会が軍人に賦与する最大の恩恵であるとも言い得るのだ。
この人が日露戦争でその職責を尽くした。この人としては当然の任務を果たしたのに対して、世間は一躍して、海軍部内第一の知嚢謀将たる栄冠を与えてしまった。他に匹敵する者のない横綱格に祭り上げてしまった。
事実、秋山が海軍部内の第一人者であるならば、海軍に人の無いことを天下に広言するようなものだ。またもし実際に伴わない空名を謳われたものとすれば、それは秋山の大なる不幸なのだ。
我輩は海軍部内の事実を知らない、また空名であるか実名であるかを慥(たしか)める手蔓(てづる)を持たない。ただ我輩の知る、ある人格者として我輩の知る秋山その人の実体から推して、その祭り上げられた横綱格は寧ろ余りに偶然の性質を帯びておったことを憾(うら)みとせなばならない。この人相応に築かれた楼閣でなくて、他から無理強いに押し付けられた装飾であったことを否むことは出来ない。
尤も秋山その人は、さる栄冠を与えられて、それに満足してはいなかった。その空名に幻惑して自己を忘れることはしなかった。傲(おご)ることも、誇ることもなしに、自己に徹した確かなものを掴んでいた。けれども他に人間性の普遍的な弱点は、この人と雖もまた脱却することの出来ない自然であった。我に与えられた最大の名誉あるいは侮辱、それに向かって何処までも無関心であり得る程に超人間的であるとは想像されない。その心境に多少の動揺のあったことは、その後八代大臣の下に軍務局長の椅子に就いた事実に見ても推測され得る。言うまでもなく、軍務局長の如き吏務はもしこの人が徹底していたならば容易に受諾すべき地位ではないからだ。果然その吏務のために、頓挫という程でなくとも、多少の暗影をその智嚢の上に投げられてしまった。
兵法は孫呉に尽きている、欧州の戦術はただ科学的組織であるだけで、孫呉に見るような至微至高な妙諦はない、東洋の兵法、それは世界に冠たるものだ、世に戦争の有らん限り、孫呉は不朽の操典である、とはこの人の酔うた時の気焔でもなく、その平生の信念であった。それほど孫呉に対する自己の理解力を持っている。その人の理解している孫呉は、もう昔の支那にあった孫呉ではなくて大正の大御代に存する秋山の孫呉であった。武器の進歩と兵力の相違とによる戦術の変化は、よし隔世の感はあるとも、用兵のコツ、その基礎的兵理は古今一貫である、と固く体得する何物かを持っていた。海軍大学に於ける戦術の講義には、生徒以外多数の将をも聴講者の中に見出したと言われていた。それほど兵法戦術に関する特異の能力、そこに自己を立てて行くことは、尤も平安なる大道を闊歩するものでなかったであろうか。軍務局長の吏務の如き刀筆の仕事でなかったであろうか。
我輩は端なくこの人の好きな相撲に想い及んで、力士鳳(おおとり)の横綱を記憶に呼び起こさねばならなくなった。年輩から言い、力量から言って、一方の勇者たるに恥じない鳳も、横綱に累いして、遂に天下のヘボ横綱の名を冠せられてしまった。横綱の名を惜しむ者から言えば、彼は既に横綱の初土俵の時勇退すべきであった。横綱の名を安ッぽくせしめる一罪人であるとも言える。しかし鳳その者に同情する者から言えば、彼にはまだ未来がある。一方の勇としてはなお捨て去るべきではない。結局彼に横綱を強いたことが誤っているのだとも附会し得る。
この人に鳳を擬するのは、あるいは不当の誹りを免れないかも知れない。けれども、その名に累いして伸ぶべきものの委縮し、流るるべきものの停滞した痕が絶無であるとは信ぜられない。我輩はこの人の為に、世の所謂好運を悲しむと共に、この人として更に一段の工夫あるべかりしを惜しみて已まないのである。
<続く>
膾炙 : 世の人々に知れ渡っていること