明治三十八年九月、連合艦隊旗艦三笠が佐世保軍港内で爆沈した時、普通ならば将軍もあの災厄にかかって不慮の死を遂げたであろうと思われるが、運良く死を免れることが出来た。
というのは、その時将軍は休戦条約締結のため、島村速雄氏委員長のもとに委員となり、軍艦磐手に乗って朝満国境方面に出張していたので災厄を免れたのだった。
その休戦談判は島村委員長のもとに、将軍が充分の働きをした事は想察余りあるが、休戦条件等に就いては、東郷長官も加藤参謀長も大抵委員に一任して細かい指図はしなかったので、大変談判がしよく、順調に進んだと言われている。
三笠爆沈は、将軍の身の上には何のかかわりもなかったが、将軍自筆の戦記が駄目になったのは、ひとり戦史研究家のみならず我が海軍それ自身のためにも痛惜おくべからざるものである。戦争中将軍はあの多忙な先任参謀としての任務に日もこれ足らざる有様でありながら、自ら観、自ら感ずる所にしたがって、戦争の経過、彼我作戦の批判、その他戦争に関するあらゆる事項に就いて詳細に記述し、それが集まって相当大部のものになって三笠の幕僚室に蔵せられていたのだが、右の災厄に遭ってまた用うべからざるに至った。